Nostalgic Patrol Cars Season 2

ニュルンベルクのブリキ救急車(1)


Die Krankenwagen aus zweimal Blechspielzeugmacher in Nu"rnberg





ニュルンベルクはオモチャの故郷



毎年2月末になると、模型誌やミニカー各誌に、「ニュルンベルク・トイフェア」の取材記事が紹介されます。2007年のフェアは2月1日〜6日、出展は2800社、タミヤがニュルンベルクに参加するようになって40周年だということで、いっそう大きく取り上げられていたようです。しかし取材者の関心は新製品の発表と現役の新興ブランドに向いているようで、何故世界的に著名な玩具見本市が「ニュルンベルク」で開かれることになったのか、といったことにはあまり関心が向けられることはないようです。

ニュルンベルクで玩具見本市(シュピールヴァーレン・メッセ)が最初に開催されたのは1950年。それまで開催されていたライプツィヒの伝統的な見本市会場が、東西ドイツの分割によって西ドイツ領から隔てられてしまったことに由来しています。ニュルンベルク市とバイエルン州政府の支援もあって、ニュルンベルクの玩具見本市は、ドイツでも最も重要な見本市のひとつに発展するともに、「オモチャの街・ニュルンベルク」の伝統を、最新の形で発信し続けることになりました。この重要な見本市があるために、ドイツの玩具企業の多くが、ニュルンベルクに本拠を置き続けているほどです。

いま、一般に「ブランド」「ブランドもの」と言うと、「時代の流れを超えて価値が受け継がれて行くもの」というニュアンスが含まれているような気がします。「ブランド」として良く引き合いに出される、「メルセデス・ベンツ」「ルイ・ヴィトン」などが、確かに息の長いブランドで、時代を超えた普遍性を獲得していることから来るイメージなのでしょう。
しかし、ミニカーをコレクションしている者にとっては、ブランドはまさに「栄枯盛衰」の歴史でした。ディンキー/コーギー/マッチボックス/シュコー/GAMA/CIJ/JRDなどなど、かつてはトップブランドの地位を謳歌し、それぞれの個性において並ぶものはない、と考えられていたブランドたちが、時代の荒波の中で次々と消えて行ったからです。欧州の古いブランドで、破綻や買収などの洗礼を受けることなく1950-60年代と同一の経営を維持し得ているブランドは、いまや圧倒的に少数です。

そして、こうした買収・吸収後のブランドは、かつてのブランド個性を大切に継承している場合もあれば、単に伝統的ブランドネーミングを「活用」しているだけで、製品企画のポリシーにおいては旧経営下のブランドとは一線を画している場合もあります。そして最近では、そういった点についてはあまり紹介されず、経営主体が変わったということすらいつしか忘れられて、「歴史あるブランド」といった曖昧な認知だけが残って行く傾向にあるようです。ミニカーショップ・サイトのブランド紹介欄で、シュコーを単に「1912年創業の老舗玩具メーカー」などと記しているものもあって、驚愕することがあります。1912年創業のシュコー社は1976年に倒産しています。私は現在のディッキー・シュコー社に何の恨みもありませんけれど、少なくともそれがハインリヒ・ミュラーの起こした会社でないことは、常に明らかである必要があると思うのです。そうでないと、現代の経営的成功者だけが評価・認知され、ニュルンベルクの玩具メーカーの「100年の苦悩」の意味がいずれ忘れられて行ってしまうでしょう。

今回は、数世紀にわたってドイツの玩具産業の中心地である「ニュルンベルク」に生まれた2つのブランド、「CKO」(ゲオルク・ケラーマン)と「シュコー」の作ったブリキ製のモデルに焦点をあてて、「ブランド個性の原点」について少し考えてみたいと思います。(2007/4/15)



※本稿を作るにあたっては、以下の資料の記述を参考にしました。

LITERATURVERZEICHNIS
-SCHUCO, BING & CO, Beruemtes Blechspielzeug aus Nuernberg Band 1, Herausgegeben von Juergen Franzke, W.Tuemmels, Nuerunberg 1993
-Schuco Piccolo, Die Modelle von 1957 bis heute mit aktulen Marktpreise, bei Rudger Huber,Battenberg Verlag Augsburg 1998
-Typenkompass VW Bus/Transporter 1949-1979 Band 1 bei Michael Steinke, Motorbuch Verlag,Stuttgart 2003
-Schuco Classic Tin Toys, The Collector's Guide by Chris Knox, Krause Publications 2002

-Metal Toys from Nuremberg, by Gerhard G.Walter, transrated by Dr.Edward Force,SchifferPublishing 1992
-Encyclopedia of Small-Scale Diecast Motor Vehicle Manufacturers, by Kimmo Sahakangas,DaveWeber & Mark Foster, Icongrafix 2006
-Classic Miniature Vehicles Made in Germany with price guide and variations list by Dr.EdwardForce, Schiffer Publishing 1990
-HISTORY OF THE NUREMBERG TOY TRADE AND INDUSTRY by Dr.Helmut SCHWARZ -Directorof the Spielzeugmuseum of Nuremberg
-Schuco Collection 2000, retail catalogue from Dickie-Schuco Gmbh & Co.KG


DANKSAGUNG

Mein besonderer Dank gilt Herrn Ru"diger Kraus in Ludwigshafen Deutschland, fu"rGenehmigungfu"r Benutzen seine Fotos u"ber CKO Krankenwagenmodelle.


※雑誌の記事見出しで、「International Toy Fair Nurnberg 2007」などと大書きしているものが何誌もありますが、ニュルンベルクの綴りは独語では「Nu"rnberg」(u"は、uの上に点が2つ乗っている「ウー・ウムラウト」で、html表示などでウムラウトが表記できない場合は「u"」「ue」と書きます)、英語では「Nuremberg」になります。このことは覚えておくと、「Nuremberg」という別の街がある、という誤解をしないですみます。

※「Nu"rnberg」の日本での慣用カタカナ表記は ニュルンベル「グ」ですが、ここでは現地音(ドイツ語での語尾有声子音の無声化)にしたがい、ニュルンベル「ク」としました。


玩具産業の「センター」としてのニュルンベルク



ゲオルク・ケラーマン(CKO)の初期ブリキ玩具のカタログ。(1926年)
右ページに救急車が1台あるのが、ちょっと気になる…。
Metal Toys from Nuremberg, by Gerhard G.Walter,
transrated by Dr.Edward Force, Schiffer Publishing 1992, p130-131


まずはじめに、CKOやシュコー社の背景となっている、ニュルンベルクの玩具産業の歴史について、ざっとふれてみます。どうも最近ハナシが長くなる傾向にありますが、コレクターにとっては興味ある事実が必ず発見できるものと思いますので、お付き合いいただければ幸いです。

「おもちゃの街」としてのニュルンベルクの歴史は、約600年前にまで遡ることができます。
19世紀の中頃に建築工事現場から、14世紀後半のファッションを身に付けた、騎士/修道士/赤ん坊などの人形が発見されており、それらは焼成されていない粘土で作られていました。1400年の都市課税台帳には、2つの人形生産工房(Tockenmacher)の記録が残されています。
これらは玩具というよりも、街を通り抜ける巡礼者や商人のためのお土産品だったようです。このことは、ニュルンベルクが神聖ローマ帝国下の自由都市としての大きな特権を持っていたこととも関係していました。
一方1390年には、ドイツで最初の製紙工場がニュルンベルクに建てられていて、そのためにニュルンベルクは「テクノロジーの発祥地」と称されました。工場で水力を巧みに利用する技術が獲得され、やがて金・銀製食器、テーブルや台所用品、武器、甲冑、羅針盤、懐中時計のブリキのコーティングなど、金属製品の大量生産へと発展して行きます。後年のブリキを主体とし、ゼンマイ仕掛けなどのメカニカルなギミックを持つ金属製玩具製造の下地が既にこの時点で形成されていると言っても良いでしょう。

こうした背景から、より精密な金属細工が可能になり、1660年代には、ニュルンベルクの金属職人・ヨハン・ヤーコプ・ヴォルラープが、フランスの太陽王・ルイ14世から数千の軍事演習用メタル・フィギュアの発注を受けています。そして18世紀の後半には、ニュルンベルクは近隣のフュルトゥ(現在のディッキー・シュコーの本社所在地)とともに、スズ製のトイ・ソルジャーの生産で有名となって行きました。
また17-18世紀には、それまでの人形製造、木工玩具製造、金属加工技術などが結び付き、ドールハウス用の台所が、「ニュルンベルク・キッチン」と呼ばれるヒット商品となりました。これは、木製の家具、金属製の食器類や食卓用の金物、陶器などから構成されていました。(これらの古い玩具は、ニュルンベルク玩具博物館(カール・シュトラーセ13-15番)に系統的に展示されています。)

しかし1806年にバイエルン王国が誕生して、「神聖ローマ帝国下の自由都市」という特権が失われると、ニュルンベルクの玩具の生産・取引の構造は大きく変化して行きます。都市が政治的な独立を失い、その代替として、バイエルン王国の中での産業センターとしての地位を早急に確立する必要があったのです。かつてのギルド(職人組合)制度によって支えられていた産業構造は急速に重要性を失い、ギルドに組織化されていなかった職人、および手工業労働者が、新しく設立される玩具メーカー(Spielwarenmacher)に大量に雇用・吸収されて行きました。玩具メーカーが増えれば増えるほど、それは景気拡大につながり、1860年代には彼らの数は400を数えるようになりました。

その後の1914年のニュルンベルク・ディレクトリに登録されている玩具メーカーは243社になりますが、この「243社」への減少は、ギルド工房による生産から工場生産への移行、そして木・紙などの旧来的な原料素材から、金属への転換を反映した数字となっています。つまり近代的工場生産への移行、金属材料への移行を実現できなかった「玩具メーカー」が淘汰されて行ったことを意味しているのです。
玩具メーカーの「大規模化」の流れは顕著で、1905年の時点で、ブリキの玩具(ティンプレート)製造で雇用されている約5,000人のうちの実に3/4が、取引の活発な113社のうちのわずか6社に雇用されていました。単独では「世界最大の玩具工場」とされたビング社の工場では、実に2,700人を雇用していた時期がありました。


ニュルンベルクで創業した古今の玩具メーカーたち



ここで、『ニュルンベルクの傑作ブリキ玩具・第1巻』(SCHUCOm BING & CO,BeruemtesBlechspielzeug aus Nuernberg Band 1, Herausgegeben von Juergen Franzke, W.Tuemmels,Nuerunberg 1993/上の画像で右の本)に掲げられている、ニュルンベルクの主要な玩具メーカー名をあげてみましょう。ミニカー・コレクターであれば知っている名前を、必ずいくつか見出すことができるはずです。

※創業年次順に表示しています。
※固有名詞をカタカナに置き換えるにあたって、例えばフランス系など、外来系
の人名をドイツ式発音にしてしまっているものがあるかもしれないことをご了解ください。例えば「CARETTE」。)


ヨハン・エマヌエル・イスマイヤー Johann Emanuel ISSMAYER 1818〜1935/36頃
マティアス・ヘス Mathias HESS 1826〜1941頃
カール・ブープ KarlBUB 1851〜1966
ビング兄弟社 Gebr. BING 1866〜1932
エルンスト・プランク Ernst PLANK 1866〜1932
イーアン・シェーナー Jean SCHOENNER 1875〜1977
アンドレアス・ブラントシュテッタ
Andreas BRANDSTAETTER
(Geobra)
1876〜現在・後にゲオルク・ブラントシュテッターとなり、現在はプレイモービル社
ジークフリート・ギュンターマン Siegfried GUENTHERMANN 1877〜1965
クリスチアン・ゲーツ・ウント・ゾー
Christian GOETZ & Sohn
(Goeso)
1878〜1960
ヨハン・フィリップ・マイヤー Johann Philipp MEIER 1879〜1934/35
エルンスト・パウル・レーマン Ernst Paul LEHMANN 1881〜現在まで(ただし在ニュルンベルクは1951年以降)
ミヒァエル・ザイデル Michael SEIDEL 1881〜1982
ゲオルク・アダーム・マンゴー
ルト
Georg Adam Mangold
GAMA
1882〜現在まで
(「トリックス」の項参照)
カイム・ウント・コンパニー KEIM & Co 1886〜1960
コンラート・クライン Conrad KLEIN 1886〜1913(ミニカーの「コンラート」とは別の会社)
ゲオルゲス・カレッテ・ウント・コン
パニー
Georges CARETTE & Cie. 1886〜1917
フライシュマン兄弟社 Gebr. FLEISCHMANN 1887〜現在まで(鉄道模型)
ヴィルヘルム・クラウス Wilhelm KRAUSS 1895〜1938
ヨーゼフ・ファルク Jaosef FALK 1896〜1935
ペーター・ドール・ウント・コンパニ
Peter DOLL & Co. 1898〜1936
ヨーゼフ・ビショフ Josef BISCHOFF(Jobis) 1899〜1938
ハインリヒ・フィッシャー・ウント・コ
ンパニー
Heinrich FISCHER & Co. 1899〜1931/32頃
ヨハン・ディストラー Johann DISTLER 1900〜1962
ゲオルク・フィッシャー Georg FISCHER 1903〜1958
カール・アーノルト Karl ARNOLD 1906〜現在(鉄道模型)
フリッツ・ヴュンナーライン・ウン
ト・コンパニー
Fritz WUENNERLEIN & Co.
(Wueco)
1906〜1960
アドルフ・シューマン Asolph SCHUHMANN 1907〜1939
フーベルト・キーンベルガー・KG Hubert LIENBERGER KG
(HUKI)
1907〜現在まで
ゲオルク・ケラーマン・ウント・
コンパニー
Georg KELLERMANN & Co
CKO
1910〜1979
ヨーゼフ・クラウス・ウント・コンパ
ニー
Josef KRAUS & Co.
(Fandor)
1910〜1937/38頃
シュライヤー・ウント・コンパニ
SCHREYER & CO
(SCHUCO)
1912〜1976(1921年以降は「シュコー」社)
ティップ・ウント・コンパニー TIPP & Co 1912〜1971
コンラート・ドレスラー Konrad DRESSLER 1918〜1970(ミニカーの「コンラート」とは別の会社)
ベーマー・ウント・シュラー BOEMER & SCHUELER 1919〜1974
フリッツ・ウント・エアヴィン・フォイ
Fritz und Erwin VOIT 1919〜1969
マルチン・フックス・GmbH・ウン
ト・コンパニー
Martin FUCHS GmbH & Co. 1919〜1982
ヨーゼフ・ノイヒーア Josef NEUHIER(JNF) 1920〜現在(現在は「CARRERA」社)
ゲオルク・レヴィ Georg LEVY(GeLy) 1920/21〜1971
アインファルト兄弟社 Gebrueder EINFALT
(Technofix)
1922〜1977
シュミット兄弟社 Gebr. SCHMID(Gescha 1924〜1967(後に「コンラート」ブランドのミニカーを製造)
トリックス TRIX 1925年設立・1938年に「アンドレアス・フェルトナー玩具製造(Andreas Foertner・ANFOE)」と統合されて「TRIX」に、1971年に「GAMA」を統合して「トリックス-マンゴールト(TRIX-MANGOLD(GAMA))」となり現在も存続
(ただし現在はメルクリン社傘下)
ハインリヒ・ヴィンマー・OHG Heinrich WIMMER OHG 1928〜1976
ハンス・ビラー Hans BILLER(Habi) 1935〜1977/80
ゲオルク・ツィンマーマン GEORG ZIMMERMANN 1946〜1972
L.ストレング・ウント・コンパニー L.STRENG & Co. 1954〜1965
シャバーク Schabak 1966年創業
ニュルンベルガー・ツィンクドル
ークグースモデーレ
Nuernberger
Zinkdruckgussmodelle
NZG
1968年創業(現在はBUBブランドを持つプレミアム・クラシックス社と経営統合)




※Gebr.= Gebru"der(ゲブリューダー)=兄弟社・兄弟商会
※Co.=CO.=Compagnie=Kompanie(コンパニー)=会社・商会
※Cie.=Kompanie(コンパニー)=会社・商会
※GmbH=Gesellschaft mit beschra"nkter Haftung(ゲゼールシャフト・ミット・ベシュレンクター・ハフトゥング)=有限責任会社
※OHG=offene Handelsgesellschaft(オフェーネ・ハンデルス・ゲゼールシャフト)=合名会社
※KG=Kommanditgesellscaft(コマンディート・ゲゼールシャフト)=合資会社


企業は決して永遠ならず

この中で、最も古いものの創業は1818年、第2次大戦後の創業はなんと4社しかない、ということがわかります。創業年次はさておき、生産(経営)の終了年次に注目してください。
第1次大戦時、そして1930年代から第2次大戦時に終焉を迎えている会社が相当数にのぼることがわかります。
第1次大戦では、一部の工場が軍需品生産に切り替えられたこと、そして戦争によってドイツ製品は世界市場から隔離されてしまい、その間にアメリカなどで玩具産業の協力な競争相手が急速に台頭しまた。これによって、ニュルンベルクの玩具産業の「黄金時代」は実質的に終わりを告げたのです。



ゲオルク・ケラーマン(CKO)の初期ブリキ玩具のカタログ。(1926年)
Metal Toys from Nuremberg, by Gerhard G.Walter,
transrated by Dr.Edward Force, Schiffer Publishing 1992, p136-137


1920年代〜30年代では、ニュルンベルクの玩具産業でも「寡占化」が進みました。技術革新と合理化によって、小規模な会社は次第に駆逐され、大規模な会社はいっそう成長することとなりました。
1929年の世界大恐慌の影響を受け、「ビング兄弟社」は1932年に会社精算に入ります。ヒトラーが政権を取ると、ユダヤ人の財産を没収してドイツ人所有に転換させて行くという、いわゆる「アーリア化」政策が採られ、ニュルンベルクの玩具産業にも深刻な打撃をもたらすことになります。ユダヤ人企業と家族は、単に会社と財産を失うだけでなく、命までも失うことになります。1939年以降は軍需品生産への転換が進められ、1943年夏には玩具の生産に対する「禁止令」が出されました。1945年には、玩具工場の半分は直接的な戦災によって破壊されており、技術を持っていた熟練工の多くは死んだか、捕虜になっていました。ニュルンベルクは、党大会会場に使われるなど、ナチ党関係の施設が多くあったために連合国空軍の空襲を受け、街の90%が破壊されているのです。
戦争犯罪人に対する刑事裁判の開催地がニュルンベルクになったのは、街の破壊度が極めて大きく、それ自体がドイツへの「見せしめ」の意味を持つからだったと言われています。(A.C.グレイリング『大空襲と原爆は本当に必要だったのか』河出書房新社2007年・p39)

このように2度の大戦は、ニュルンベルクの玩具産業に大きなダメージをもたらしました。
敗戦国ドイツは、アメリカ/イギリス/フランス/ソ連邦の4か国に、分割占領されましたが(首都ベルリンは4か国の共同管理)、ニュルンベルクがアメリカ占領地域に属したことが、結果的には幸運をもたらすことになります。外貨の獲得のため、終戦から2年の間、シュコー/BUB/フライシュマン/トリックスなど、ニュルンベルクの最も著名なメーカーは、アメリカ市場向けの製品だけを生産し、そしてこれらは「缶詰の食料を得るためのブリキ産業」と呼ばれたほどだったのです。

一方で1948年6月20日の通貨改革が発端となり、ソ連邦と西側3か国が決裂し、翌1949年の東西ドイツ分裂を招いてしまいます。(西ドイツ建国は1949年5月23日、東ドイツは10月7日。)しかし西ドイツ建国後の「奇跡」とも言われる経済成長の中で、西ドイツの玩具産業は驚くほど早い復活を遂げます。1948年〜1953年の間に、西ドイツは玩具の輸出を1億ドイツ・マルク以上にまで押し上げました。これは、戦前最後の年の、分裂以前の(東ドイツ地域をも含む)全ドイツにおける数字をも上回るものでした。ニュルンベルクと隣接するフュルトゥの各玩具メーカーは、この玩具産業の急成長で大きな収益を上げましたが、特に金属玩具の生産が全体の2/3を占めていたことに注目しておく必要があります。

1950年代は、ニュルンベルクにとって、こうした成功が継続した時期となりました。シュコー社は800人以上の従業員を擁し、ヨーロッパでも再大手の玩具メーカーとなりました。
また、トリックス/アーノルト/フライッシュマンなどは、ニュルンベルクを鉄道模型製造のセンターに押し上げて行きました。ニュルンベルクは、隣接したフュルトゥとの間で鉄道が開通したのが1853年とドイツで最も古く、交通博物館 (DB(ドイチェバーン)博物館/Verkehrsmuseum)があるなど、ドイツの鉄道発祥の地として、鉄道との縁がとりわけ深い街でもあるのです。

しかしその後の玩具産業の国際化による世界的な競争の激化、特にアメリカとアジアにおける玩具産業の驚異的な成長は、ニュルンベルクの玩具産業に深刻な影響をもたらし、1970年代の中頃には、既にニュルンベルクは玩具の「輸出都市」という地位を失い、玩具を輸入する地域に転換させられてしまいました。この間に、ニュルンベルクの伝統ある金属玩具製造会社は、そのビジネスをやめなければならない事態となって行きます。
その原因としては、既に1950年代というかなり早い段階で登場していたプラスチック製の安価な玩具が、その後にこれほどの成功を収めることが予測できなかったことがあげられます。金属玩具製造メーカーは、かつて自分たちが木や紙・陶器などの玩具を駆逐して成長したにもかかわらず、新しい素材がそれと同じ現象を自分たちにもたらす、ということに考え及ばなかったのです。
また金属玩具の製造で、近代化・大規模化していた生産方式は、アジアなどの労働集約型生産で大変に安価に供給されて来る商品と、価格競争することが出来なくなっていました。そして研究開発面で多くの開発投資を必要とする電子玩具の分野では、日本やアメリカのメーカーの資本力が優勢になって行きました。

もちろんプレイモービルや、鉄道模型メーカーなどは、これらの国際競争の中で研鑽されながら、今日でもニュルンベルクの玩具産業の伝統的クォリティを守り続けています。


ニュルンベルクの金属玩具産業の盛衰の歴史を象徴するシュコー



シュコー・ヴァリアント・シリーズの「信号機付き交差点」の説明書(左)と、
1955年の「シュコー特許玩具」カタログ(右)。ただし、これらは共に復刻品です。


シュコーの歴史は、1887年のハインリヒ・ミュラーの誕生にまで遡ります。彼は既にティーン・エイジャーの頃から、彼独自の玩具づくりを始めていました。そして彼はまもなく、ビング兄弟社(GebruederBing)(1866〜1932)に職を得ます。そして1912年に、ハインリヒ・シュライヤーとともにビング社を退職しました。シュライヤーは地域の商人でしたが、シュライヤー・ウント・コンパニー(Schreyer & Co.,)を設立します。ミュラーは製品の企画・設計・デザイン担当、シュライヤーは経営・営業の役割を担っていたようです。トレードマークは、よりシンプルな「SCHUCO」(SCHreyer UndCOmpany)が使われました。ドイツ語の綴りでは「Sch」はそれだけで「シュ」と発音することができるので、次にある「u」が奇妙に感じられるのですが、この「u」は「und」から来ていたことになります。

会社の最初の製品は、フエルトやビロードなどで覆われた、機械仕掛けで動く人形や動物のオモチャでした。しかし会社創業まもなくで第1次大戦が始まり、事業は中断を余儀なくされます。
しかし1919年には事業を再開。1920年代には、同社初期の最も有名なヒット商品が生み出されることになります。これは「ピック・ピック・バード」(Pick-Pick Bird)と呼ばれる動く小鳥のオモチャで、1960年代に最終的に生産が終了するまで、何と2000万個も生産されるロングセラーになりました。



1930年代の中頃には、シュコー社独自の特許を持つ自動車玩具が世に出されます。「PatentoAuto1001」という名を誇らしげに付けたこの製品は、ゼンマイ式のティンプレート・カーで、「テーブルの端から落ちずにターンする」というメカが搭載されていました。この発明はシュコー社の「特許」であるにもかかわらず、実に多くの他のメーカーによって模倣商品が登場するほどの先駆的な内容を持っていました。

第2次大戦によって、同社は2度目の事業の中断を余儀なくされますが、今回も立ち上がりは早く、1946年を待たずに生産を再開。まもなくアメリカ市場向け製品のブームに乗ることになります。
この時期においても、ハインリヒ・ミュラーは、全ての製品の設計に対して責任を持っており、シュコー社の伝統を継承しつつも、これからの時代に適応して行く製品づくりを考えていました。全ての製品について、子供たちが手にとった時の状態を配慮したチェックを、彼自信が行っていたと言われています。かくしてシュコー社は、1940年代〜50年代に、その全盛期を迎えることになります。
1952年には、市内・フュルター・シュトラーセに、13,000平方フィートの新工場をオープンさせました。


Schuco Varianto SANI 3043
シュコー・「バリアント」シリーズ No.3043「SANI」(ザニ)「U.S.Zone Germany」



私は本来「ティンプレート」のコレクターではなく、ティン製自動車を集めようと思ったこともなければ、シュコーやケラーマンの歴史を製品でコレクションしようなどという、「大それた」野望を抱いたこともありません。しかし、この「SANI」を見つけた時には、「一目惚れ」してしまったのですね。

まず、大きさが1/43ミニカーとそれほど変わらないこと。ティンプレートというと、やたらに大きな自動車玩具のイメージがありますが、そういう「大味」なところが無いのです。
それと、ティンプレートには、派手な架空のマーキングや、ものによっては室内の人物までが絵になって印刷されているようなイメージもありますが、このモデルはあくまで清楚。窓は抜けていて、透明のウインド付き、ドアまわりはスジ掘りという「模型的」な仕上げです。
ドイツの救急車に特有のアイボリー1色の塗装に赤十字マークだけを付けていて、いかにもその後のメルクリンなどのダイキャスト・ミニカーの「直接のご先祖」という気がしたのです。

この「バリアント」といシリーズについて、少し触れておきましょう。シュコー社の歴史の中で触れた「パテント・アウト」(テーブルの端から落ちずに戻って来るクルマ。「アウト」はクルマの意味の「Auto」で、「out」ではありません)や、ハインリヒ・ミュラーが会社の伝統の活用と時代への適合の両方を考えていた、という点に表れているように、シュコーは創業以来得意とした、「メカニカルなオモチャ」という強みを生かして、当時としては最先端の「動き」や「驚き」を製品に盛り込んで行ったのです。

「バリアント」は、全長11cmほどのティン製自動車で、ゼンマイ動力。裏返すと、4輪(ゼンマイ動力が伝達されるのは後2輪)とは別に、第5のプーリ状のホイルを持っていることがわかります。
システムとしては、スプリング状のワイヤでループ状のエンドレス線を作り、このワイヤ上に車体側の第5のホイルを載せると、エンドレス線上を走るように工夫されているのです。



ヴァリアント・シリーズの取り扱い説明書(Gebrauchsanleitung)で、3041-3042-3043-3044 用。
裏表になっています。(ただしこれも復刻品)


そして、このループ線を「道路」情景として演出するために、信号付きの交差点、ガソリンスタンド、ガレージ、ショップなどが製品化されていたのです。「交差点」では信号機が電池で点灯、前方道路が通行中は、交差側道路の車輌は機械的にロックされて停止するようになっているようです。
また屋根上の穴にケーブルを差し込むと、「第5のホイル」を直接ステアリングさせることができ、ループ線をはずれた場所でも「リモコン」式に遊べるようになっていました。
車体後部には後輪の駆動をロックできるスイッチがあり、ロック状態でゼンマイを巻き、ロックを解除すると走行をはじめます。

つまり、その後の「プラレール」「鉄道模型」「スロットレーシング」「リモコン」などの要素を既に持っているのですね。それも1940年代、ドイツが敗戦国となって数年で、ハインリヒ・ミュラーはこの着想を持ち、実現しているのです。街路のアクセサリーなどが大変に充実していた、その後のSIKUのフェアケーア(交通)シリーズなどのルーツになっている気もします。



ゼンマイでは、ごく短時間でクルマは動かなくなってしまうだろう、と思いがちですが、どうしてこのゼンマイは、かなり長い時間、ジージーと駆動してくれます。実はこのヴァリアント・シリーズは、変速ギアを内蔵していて、車体後上面のスィッチは、シフトレバーも兼ねているのです。「0」「T」「U」「V」の3段になっていて、「V」速の方が早く、「T」速では、ゆっくりと、しかしそれだけ長く駆動してくれるという、「驚異のメカ」なのです。そして後には、ゼンマイを電池式モーターに替えた「バリアント・エレクトロ」というシリーズに引き継がれて行きました。



「SANI」は「ザニ」と、頭を濁って読んでいただけば良いのですが、救急車(ザニテッツヴァーゲン/ザニテッツ・アウト)を縮めた「洒落」になっています。もともとは「衛生上の・保健の」という意味の「ザニテーア」という形容詞から来ています。救急隊員・衛生兵を「ザニテッツ・ディーンスト」と言います。アメリカ兵が衛生兵のことを敬愛を込めて「ドク」と呼びますが、ドイツ兵は衛生兵(看護兵)のことを「ザニ」と呼びました。つまりこのオモチャは英語ふうに言えば「ドク」という愛称をもらっているわけです。

「SANI」はバス型ボディですが、3044番の「バス」が片側5列の窓を持つバス型ボディ、3046番の「バン」が、運転席ドア以外には側面窓の無いカステンヴァーゲン型ボディであるのに対して、「SANI」は片側2列の変則型です。つまり「バス」「バン」「救急車」のボディを作り分けているわけで、全く同じ金型の色替えで全てを済ませようとする、その後のダイキャスト・メーカーに、ツメの垢でも煎じて飲ませてやりたくなります。それに1940年代末から50年代初期に透明のウインドパーツを付けているとは、ディンキーやコーギーを遥かに凌ぐパイオニアということにもなります。



Schuco Classic Tin Toys, The Collector's Guide by Chris Knox,
Krause Publications 2002, p70-71


『Schuco Classic Tin Toys, The Collector's Guide by Chris Knox, Krause Publications 2002』は、「コレクターズガイド」となっていますが、基本的には「写真集」でもあります。著者であるクリス・ノックスはプロのカメラマンで、一方初期シュコーの熱心なコレクターでもあり、「趣味と実益」を兼ねた企画として、この写真集を出したのです。本に掲載されている写真は、「ズィンバ・ディッキー・グループ」に譲渡された後のシュコーのプロモーション用のカレンダーにも使われました。



この本の中でクリス・ノックスは、ヴァリアントのシリーズについて、「実際のクルマをモデル化したものではない」と書いているのですが、「SANI」の顔をしげしげと眺めているにつけ、メルセデスL407系のグリルと相当に似た雰囲気を持っているような気がして来ました。「ウクライナ製のドイツ救急車」の中で、ウクライナ・ベクター製の救急車モデルとしてご紹介した車輌です。



さらに、同じベクター製のメルセデス O 321系の手術車と較べて見てびっくり。フロントの顔つきはもとより、ボディの側面形状、側面の窓配列が全く同じなのですね。「SANI」は、「バリアント・3044」番のバスのバリエーションであることを考えると、このボディはメルセデス O 321系のバスから強いインスピレーションを受けて作られていると思うのですが、いかがでしょう。


ダイキャストミニカーではちょっと見られない「MADE IN U.S.ZONE GERMANY」



裏板は、文字類が刻印ではなくてプリントになっており、『MADE IN U.S.ZONE GEMANY』の表記があります。シュコーが戦後に玩具生産を再開したのを1945年末から46年の早い段階ですが、『MADE IN U.S.ZONE GEMANY』の印刷または刻印は、シュコー製品、また玩具に限らず広くカメラなどの全ての輸出向けドイツ製品に使われていて、1947年から1952年の5年間に限って使われているようです。

東西ドイツが分裂してドイツ連邦共和国(西ドイツ)が建国されるのは1949年5月23日ですが、西ドイツが主権を回復するには、1955年5月5日のパリ諸条約(1954年9月締結)の発効を待たなければなりません。パリ諸条約では、西欧9か国合意によりブリュッセル条約を修正、敗戦国である西ドイツとイタリアを加えて西ヨーロッパ同盟を結成するとともに西ドイツの主権回復・再軍備・NATO加盟などを承認したのですが、冷戦への突入(ソ連邦との対立)という特殊事情のため、1955年以降も米・英・仏による西ドイツ駐留軍(占領軍)の「安全保護権限」は依然として留保されたままだったのです。つまり戦時などの非常事態下では、西ドイツの主権を上回る権限を駐留軍が持つ可能性が「留保」されていたということです。これは1968年まで続きます。
このような事情もあって、西ドイツ建国と同時に『U.S.ZONE GEMANY』という概念が消滅していない、輸出製品に限っては主権回復以前の1952年まで使用された、と解釈しておきたいと思います。

モデルの本来の生産時期と、裏板の『MADE IN U.S.ZONE GEMANY』の表記とが時期的に一致しないという話も見聞しますが、古いモデルでは裏板だけを別のボディに付け替えたレストア品などの存在も否定は出来ない、という点も頭の片隅にとどめておいていただきたいと思います。


クリス・ノックスの写真集68ページに紹介されているように、『U.S.ZONE』ではなく、『MADEINWESTERN GERMANY』となっているものも、もちろん存在します。私はこの「SANI」が大変に気に入っていて、もし裏板プリントまでを確認して買える機会があれば、『MADE IN WESTERN GERMANY』のものも入手してもいいか、と考えています。

実は「SANI」には、もうひとつ「1003」番で、「MIRAKO-SANI」(ミラコ・ザニ)というモデルがあります。このモデルには、「バリアント」にあった車体裏面の5つ目のプーリ型ホイルがありません。どうやら想像するに、自動的にステアリングして、平らな床の上をエンドレス線状上に走行するようで、かつてニチモのトヨタ・パトロールやランドクルーザーなどが搭載していた、カム型自動操行メカと同じようなものではないかと思われます。そのことをもって「奇跡的」(mirakuloes)だと言っているのでしょう。

「ミラコ」のザニは、バリアントとは別のフロントマスク部品を付けていて、外観でも容易に識別できます。オークションに出ていたのですが、丁度その時私は「バリアント」のザニに入札しようとしていたことと、英語圏サイトでかなり開始価格が高かったことで、入手を断念しました。
(バリアントの方はドイツ語サイトに出ていたもので、実はこの戦後直後のザニには、現在の国産アンチモニー製1/43モデルと同程度の価格でした。かなり生産数も多いのでしょう。)



「SANI」本体を入手後まもなく、シュコーのゼンマイキー3点のセットと、リプロボックス(複製箱)、取り扱い説明書(複製)を発見し、入手しました。
ゼンマイキーに関しては、果たして「バリアント」のシリーズに適合するものかどうか、自信が無かったのですが、資料を見ると「2」という刻印のある短いキーを使うらしいことがわかり、その「2」番が3点の中に含まれていることが確認出来たので、落札しました。



ゼンマイキーが届くまで、「SANI」は沈黙していたのですが、キーを差込み、巻き上げてやると、「SANI」の車輪は勢い良く回転しました。この「SANI」にとっては何年振りの出来事だったのでしょうか。ドイツのメカ恐るべし。と言うよりも、ゼンマイキーが捨てられずに保存されていて、オークションに出て来るという市場環境そのものが羨ましいです。



リプロボックス(複製箱)は、欧州ではコーギー/ディンキー/CIJなどをはじめとして、かなりの種類が販売されていて、確立されたマーケットを持っているようです。
古いモデルになればなるほど、箱が付いている確立は下がって来ますから、複製箱の需要があるのは、ある面当然とも言えます。私もこの「SANI」の箱がどうしても欲しくて、ユーロ札を直接送って手に入れました。

リプロには、実物をカラーコピーしたもの、スキャンしたデータをカラー出力したもの、実物を反射原稿としてオフセット印刷がかかったものなどがあります。過去に入手した中には、カラー出力で触るとベタベタするようなものまでありました。
スキャンの解像度とカラー出力のクォリティが低いものを手にしてがっかりすることもありますが、この「SANI」のものは、取り扱い説明書ともども、オフセット印刷がかかっているようです。
少し年季の入った本物箱から複製している場合、「年季の入り方」までが忠実にコピーされるため、ちょっと目には事物と見まがうような複製箱になります。
ただしこの「SANI」の場合、「U.S.Zone Germany」のものと、それ以降の「West Germany」時代のものとでは箱のデザインが異なっていることも考えられます。

リプロボックスに入れた上で「箱付き」と偽って売る、ということでもない限り、失われた古いパッケージをリプロで補ってやる、というのも、ひとつの楽しみ方だと思います。
欧州では、コーギー/ディンキー関連の、失われやすい付属のフィギュアとか、アクセサリー、ラベルやデカール類までが複製されて別売りされています。もちろんこれらを使ってレストアされた商品については、売買の時にその旨を明記する、というマナーを守らなければなりません。


ニュルンベルクのブリキ自動車のもうひとちの雄=ゲオルク・ケラーマン(CKO)

もうひとつ、ニュルンベルクの金属玩具を語る上で、忘れることのできないメーカーがあります。
「CKO」のブランドマークで知られる「ゲオルク・ケラーマン」です。
ゲオルク・ケラーマンの歴史については、年表ふうに整理してみましょう。



右ページは1926年10月の『ドイツ玩具新聞』(ドイチェ・シュピールヴァーレン・ツァイトゥング)に
掲載されたゲオルク・ケラーマン社の広告で、ヘッセ・シュトラーセの新工場を紹介。
ケラーマン社無きあとも、この建物の社名入りファサードは、モニュメントとして保存されています。

Metal Toys from Nuremberg, by Gerhard G.Walter,
transrated by Dr.Edward Force, Schiffer Publishing 1992, p20-21


1881年 9月18日、創業者である、ゲオルク・ケラーマンが生まれる。彼は若い時に、カール・
ブープ(Karl Bub・1851年創業)社で職人、その後販売部門長として勤務
1910年 ニュルンベルク市・ゴステンホーフ地区・タウスシュトラーセで、小さなティンプレート
玩具製造工場を創業
1914年 工場を市内・バウエルンガッセに移転
1920年 「CKO」のトレードマークを考案
1922年 初のヒット商品であるフィギュア玩具を世に出す
1926年 市内・ヘッセシュトラーセの新工場オープン
1931年 創業者ゲオルク・ケラーマン死去
息子のヴィリー・ケラーマンが、技術総監督の職に就く
1935年 ヴィリー・ケラーマンが最高経営責任者となる
1938年 フォルクスワーゲン・コンバーティブルのモデルを発表
1943年 戦争激化により、玩具製造を休止
1945年 戦争の最後の月に、工場は深刻な被害を受ける
しかし1945年中に輸出向け製品の製造を再開
1954年 小サイズの「ロロ」(Rollo)シリーズをスタートさせる
1958年 ヴィリー・ケラーマンの息子のヘルムート・ケラーマンが、工場内での重要な役割を担
うようになる
1961年 「ロロ」(Rollo)シリーズの生産を、一部の製品に限定
1978年 社名を、「ゲオルク・ケラーマン・カー・ゲー」(Georg Kellerman KG.)に変更
(K.G.は「コマンディート・ゲゼールシャフト」で合資会社)
1979年 全ての生産活動を終了

1910年から69年間、息子・孫にまで継承された会社も、1979年に完全な生産停止を迎えました。
VW実車の登場とともにその玩具を作り、やがて軍需生産への転換と戦災、そして海外向け玩具製造の再開とそれによる成長という、まさに20世紀ドイツ史の縮図をこの会社も経験し、そして去って行ったのです。「CKO」のブランドマークは、「Co」の間に「K」をはさんだ組み合わせで出来ており、「ケラーマン・コンパニー」を表しています。

シュコーの製品が、独自のパテント(特許)に支えられた「メカニズム」を大きな特長としているのに対して、ケラーマンの製品には、かなり早い段階から「スケールモデル性」が見出せます。
民間用の乗用車/トラック/消防車などはもとより、航空機/艦船/軍用の装甲車やサイドカーなどのモデルを戦前から製作していて、これらは「プラスチックモデル」など存在しない当時としては、極めて「精密」なモデルだったであろうことが推測できます。これらのモデルは、そのままの設計で戦後にまで生産され続けていることからも、設計と品質に対する自信のほどがうかがえます。
どう見てもドイチュラント級装甲艦にしか見えない「バトルシップ」の玩具を1958年まで生産しているのですから面白いです。アメリカの子供たちは、これをアメリカ戦艦だと思って遊んだのでしょうか。

1954年にスタートしている「ロロ」シリーズは、全長12cm程度のティンプレート製のクルマのモデルたちで、それまでのティンプレート自動車よりもサイズを小さくし、安価に提供できるようにしたものでした。これは推測ですが、「ロロ」(Rollo)というのは、おそらく「転がる・回転する」という意味の「ローレン」(rollen/英語のroll)から来ているものと思われ、フリクション動力を内蔵していることと関係しているのではないでしょうか。


CKO(Georg Kellermann & Co.) Art.-Nr.402 VW Typ T1-T2a Krankenwagen
CKO(ゲオルク・ケラーマン)#402 VW Typ T1-T2a 救急車





VWの救急車は、「ロロ」シリーズの1員として、まず「Type T1」で1960年に発売。
リアゲートあり/エンジンルーム扉小のTyp T1b(1955-1963)を正確に再現してあります。実車生産時期と、1960年というモデル発売時期ともピタリと符号します。加えてリアゲートに窓なし、運転席を除く側面窓3列の救急車ボディ(Transporter T1/Type 27 Krankenwagen/1958-1963年の生産)をも正確に再現していて驚かされます。ディッキー・シュコーの現行品を含めて、バス・ボディに赤十字を付けて「救急車」としているダイキャスト製品が多い中で、その姿勢は特筆に値するでしょう。
モデル全長は、バンパーを含めて119mm、「Type 27 Krankenwagen」の全長は4280mmなので、1/36というスケールになります。後のT2ではフリクション動力が後輪に入っていますが、このT1では前輪にフリクションが付きます。

このモデルには、以下のバリエーションがあります。

(1)Type T1: 窓小型・フロントバンパーの中央にナンバープレート型の切り欠きあり
(2)Type T1: 窓小型・フロントバンパーの切り欠きなし
(3)Type T1: 窓小型・フロントバンパーの切り欠きなし・大型テールランプ

ところで、フロントバンパーの「ナンバープレート切り欠きあり・なし」というのは、単にモデル上のバリエーションだと思われるでしょう? 例えばトミカの裏板バリエーションのような。
ところがT1b実車でも初期(1955-1958)にはこの「切り欠き」があり、T1b後期(1959-1963)以降にはこの「切り欠き」は無くなるのです。また(3)で大型テールランプ化されたということは、実車のT1c(1964-1967の生産、救急車ボディの「Type 27 Krankenwagen」も同じ)へのマイナーチェンジを反映していることになります。つまり実車のバンパー形状やのテールランプ形状が変わるたびに、金型を改修しているのです。こうなると「ブリキのオモチャ」だとは到底言っていられません。




左がT1bの初期(フロントバンパーに関してはT1aも同様。)       
右がT1c。(ただしこれは両方ともトラック型荷台を持つType26・プリッチェンヴァーゲン)  

Typenkompass VW Bus/Transporter 1949-1979 Band 1    
bei Michael Steinke, Motorbuch Verlag 2003, p38/p74



T1b-Type26患者搬送車は、リアゲートに窓なし、
側面窓3列で、CKOのモデルが正確
TypenKompass VW Bus/Transporter Band 1, p54

私が入手できたモデル(上の画像)は(1)ですが、(1)〜(3)のバリエーションの存在は、このモデルを購入したドイツ人出品者に教えてもらいました。(2)(3)の捜索を依頼してあるのですが、まだ入手出来ていないので、彼の許可を得て、彼の送って来てくれた写真でご紹介することにします。



Photo: Ruediger Kraus, Germany
   

フロントバンパーの「ナンバープレート用切り欠き」の無いタイプ。この画像のモデルは大型テールランプの(3)(つまりT1c)ですが、小型テールランプの(2)も、前面ビューは変わりません。


Photo: Ruediger Kraus, Germany
      「ナンバープレート用切り欠きなし」のタイプだけにある、大型テールランプのモデル


続いて、1965年に、同じ「Type T1」のままながら、窓が若干大きい別のボディに変更。上記3つのT1とは全く異なるボディです。こちらはモデルの登場時期から言って、はじめからフロントバンパーに「切り欠き」なし・大型テールランプのT1cです。
これも私は持っていないので、ドイツから送られて来た写真でご紹介します。

(4)Type T1: 窓大型・リアゲート幅広(1965年〜1966年の生産)
(5)Type T1: 窓大型・テールランプに赤ペイント・ドアに「Wagen Nr.402」の文字マーキングあり・
   リアゲートに窓あり(1966年〜1968年の生産)


Photo: Ruediger Kraus, Germany



Photo: Ruediger Kraus, Germany

(4)Type T1c: 窓大型・リアゲート幅広(画像左)
(5)Type T1: 窓大型・テールランプに赤ペイント・ドアに「Wagen Nr.402」の文字マーキングあり・
   リアゲートに窓あり(画像右)

そして1968年に、「Type T2」にフルチェンジし、1979年まで生産されました。モデル全長は119mmでT1と同じですが、実車のT2の全長が4505mmとT1より少し大きくなるため、スケールが約1/38になります。

(6)Type T2: 運転席・助手席ドアの両方に「Wagen Nr.402」のプリント
(7)Type T2: 右側面後部に「NOTRUF 40200」の印刷。「Wagen Nr.402」のプリントは助手席側
  (右側)のみで、運転席側にはなし。



(6)Type T2: 運転席・助手席ドアの両方に「Wagen Nr.402」のプリント





(7)Type T2: 右側面後部に「NOTRUF 40200」の印刷。「Wagen Nr.402」のプリントは助手席側
  (右側)のみで、運転席側にはなし。


これらは品番が全て「402」になります。
実はエドワード・フォースによる前掲書(Metal Toys from Nuremberg, by Gerhard G.Walter,transrated by Dr.Edward Force, Schiffer Publishing 1992)にも(1)〜(3)のバリエーションについての記述はなく、「フロントバンパーの切り欠きなし」の(2)または(3)の写真しか掲載されていません。
(2)・(3)・(4)・(5)を気長に探してみようと思いますが、見かけるのは(1)が多いことに加え、フロント/リアをキチンと写した画像までがなかなか添付されておらず、(2)(3)、特にテールランプを確認するには難儀しそうです。また、(4)・(5)は生産期間が短いことから言ってもレアなようです。



Metal Toys from Nuremberg, by Gerhard G.Walter,
transrated by Dr.Edward Force, Schiffer Publishing 1992, p96-97

この本はゲルハルト・ヴァルターの独語版(NUERNBERGER BLECHSPIELZEUG
-Die einzigartigen mechanischen Spielwaren der Firma Georg Kellermann & Co zu Nuernberg,
aus den Jahren 1910-1979,Laterna magica Verlag 1991)をエドワード・フォースが英訳したもので、
ロロ・シリーズも丁寧に紹介しています。


402番のVW救急車は、1960年から1979年まで、19年間も生産され続けたことになります。ドイツの子供たちにとっては、ポピュラーなオモチャだったことでしょう。

シュコー/CKOともに驚くのは、その塗装仕上げの堅牢さです。1970年代のダイヤペットが、経年変化で塗装表面に水泡状のブツブツが出て来たりして閉口しますが、CKOで40年、シュコーのヴァリアントでは50〜60年を経過していると思われる塗装が、ビクともしていません。これはティンプレートへの焼付け技術の差なのだろうと思います。「技術品質」というのは、こういうことか、と頭が下がります。
90年代末期創業の日本の振興ブランドによる中国製ミニカーが、ホイル周辺で既にベタベタして来ているものがあり、触ると手に塗料が付いたりするのには全く困ったものです。「品質」と言うのは、時間軸を挿入してはじめて語れる話なのであって、「コレクター向け商品で子供向け玩具ではありません」などと言いつつ、販売時だけかろうじてクォリティをとどめている刹那的な商品になることは、是非とも避けていただかなくてはならないでしょう。

「ロロ」は、ティンプレート自動車玩具としては小サイズ、安価なシリーズで、いわば「ティンプレートによるミニカー」の性格を持っていたと考えることができるわけですが、それだけに、ダイキャスト・ミニカーと直接的に競合する商品になって行ったであろうことが、想像に難くありません。
シリーズとしての製造縮小に追い込まれる1961年という時期は、欧州各国でのダイキャスト・ミニカーの隆盛とほぼ期を一にしていると考えられます。
ティンプレート製のボディは、基本的に1枚のシート・メタルを、雄型と雌型の間にはさんでプレスするという製法を採っていて、極めて薄い材質で出来ていますから、ダイキャスト・ミニカーのように、ドアやボンネットが開閉する、といったアクションを導入することは容易なことではありません。
また薄いブリキ板のエッジが、子供にとって危険である、という評価もあって、急速にプラスチックや、ダイキャストなどの他の材質の玩具に置き換えられて行ったのです。


Kovap #0613 VW Typ T2a Krankenwagen (CKO Reprica) 1/38
Kovap #0613 VW Typ T2a 救急車(CKOレプリカ)1/38



チェコ共和国・「コヴァープ」製のCKO・レプリカ。
チェコというと、ダイキャスト・ミニカーでは縁の遠い地域ですが、ブリキ玩具の素材であるブリキ(スズ鉄板)は、13世紀後半から16世紀前半までの間にボヘミアで完成され、その後ドイツやイギリスへと伝わった技術のようで、いわばブリキ製造では発祥の地と言える場所です。フェルディナンド・ポルシェの父親であるアントン・ポルシェは、北ボヘミアのブリキ職人だったそうです。
(ボヘミアは、歴史的に神聖ローマ帝国/スウェーデン王国/オーストリア・ハンガリー帝国領だった時期があります。「オーストリアのボヘミア」といった記述のある場合は、現在のオーストリア共和国の一部という意味ではありませんので、念のため。)

ゲオルク・ケラーマンが1979年に生産を停止した後、「CKO」の商標と、金型・治具は他人の手に渡り、それが現在では商標は「プレミアム・クラシックス社」に、金型と治具は「コヴァープ」に渡っている、ということのようです。ただし前掲書(Metal Toys from Nuremberg, by Gerhard G.Walter,SchifferPublishing 1992)では、残念ながら「1979年に生産を中止」とあるだけで、処分可能な資産である商標や金型・治具の譲渡先については何も書かれていません。

ただケラーマンの生産停止は、ドイツにおける玩具製造のひとつの章の終わりであった、という記述があり、それほどに重いことだったのか、という感を持ちます。つまり最後まで「ティンプレート」という製法にこだわり、ダイキャストやプラスティック玩具にシフトしなかったことが、彼らの「終焉」にあたっての決意だったとも読み取れるからです。ティンプレート/ダイキャスト/プラスチックには、「金型を使う」という共通点はあるものの、成型上のノウハウは全くと言っていいほど違うはずですから、「自分たちはダイキャストやプラスチックの製品は作らない」という「意志的な選択」をしたのだとも受け取れます。

コヴァープのレプリカと、CKOオリジナルの「プレスの深さ」を比較すると、レプリカの方は表現が甘く、丁度薄皮を1枚かぶせた上からプレスしているような感じです。仮にCKOの所有していた金型がコヴァープに渡ったとして、全く同じ金型・治具からプレスした製品にこれほどの差が出るものでしょうか。 技術の熟練の差なのでしょうか。
以前に「VWの救急車」の項でこのモデルをご紹介した時に、『私としてはCKOの金型が「コヴァープ」に渡り、現在それらを使ってモデルを生産している、という説には何か釈然としないものがある』と書いたのですが、その後に面白いものを手に入れました。



イギリスのネットオークションに出品されていたもので、同じコヴァープのVW-T2レプリカですが、先に入手していたものとは違うパッケージに入っていました。「KOVAP RETRO」のシリーズ名、「VWAMBULANCE 1969」の明快な年式表示、「Sammlermodell」(ザンムラーモデール/コレクター向けモデル)のドイツ語の表記など、パッケージのバリエーションとして押さえておくことにしました。ネット上の画像では写っていない表記などへの期待もありました。出品者が「ロシア? チェコ?」と書いていたように、パッケージ上にはコバープ自体のアドレスや原産国表示などは何もありません。





左:CKOオリジナル/中央:Kovapの比較的古いレプリカ/右:Kovapの比較的新しいレプリカ。
やはりたくさんプレスすると、型の能力が落ちて来るのでしょうか…。
裏板でも右では「REPLICA」の刻印が無く、Kovapの商標にも違いがあります。
Kovap製は、はずみ車用の「膨らみ」の名残があるだけでフリクション動力は入っていません。


ところが、モデルが到着してみてびっくり。モールドの刻印が明らかにシャープなのです。
CKOオリジナルが最もシャープなのは当然ですが、想像するに、おそらくレプリカとしての製造時期が比較的早いのではないでしょうか。ティンプレート用のプレス金型が、生産数とともに劣化して来るものかどうか私にはわかりませんが、とりあえずそう解釈しておきたいと思います。



ティンプレートのプレス用の金型。CKOのポルシェ356Bのもので、雌型(上)と雄型(下)の間にブリキをはさんでプレスします。CKOが用いたのは、533mm×765mm(ほぼB3判)厚さ0.24mmのスズ鉄板だとのこと。こういう写真があるということは、CKOの金型が何らかの形で現存していることを示唆します。

Metal Toys from Nuremberg, by Gerhard G.Walter,

transrated by Dr.Edward Force, Schiffer Publishing 1992, p18


その後「CKO」の商標を取得したプレミアム・クラシックス社(Premium ClassiXXs GmbH)は、1851年の創業で、同じくティンプレート・トイを作っていたカール・ブープ「BUB」の商標をも買い取っていて、2002年から「BUB」ブランドでの1/87・ダイキャストの製品ラインを展開しています。




プレミアム・クラシックス社は、ペーター・ブルンナーとトーマス・ロシュマンによって2002年に創業された若い会社で、現在では「NZG」のオフィスもプレミアム・クラシックス社と同じ住所になっています。

つまり皆さんが良くご存知の「BUB」の商標も買収取得されたもので、現在のプレミアム・クラシックス社はカール・ブープ社とは経営的・製品的な継承関係があるわけではないのです。カール・ブープも、1966年に事業を終えています。CKO創業者のケラーマンは、若い頃にブープ社に勤めていたわけですから、2つのブランドは100年を経て、奇妙なカタチで邂逅したことになります。

プレミアム・クラシックス社は、現在「CKO」ブランドでの商品展開をしているわけではありませんが、
「CKO-ケラーマン」のプリントの入ったミニカー(VW-T1)を「BUB」ブランドで発売しました。
ことによると、「CKO」ブランドでの商品展開を何か考えているのかもしれません。
くれぐれもプレミアム・クラシックス社には、カール・プープと、ゲオルク/ヴィリー/ヘルムートのケラーマン一族の名に恥じない製品を作って行って欲しいものです。


ニュルンベルク玩具産業の変化を象徴するシュコーの「その後」

CKO(ゲオルク・ケラーマン)が、「ダイキャストは生産しない」という意志的な選択をしていたように見えるのに対して、一方のシュコーは、ダイキャスト製品への転換をはかって行きました。




1958年から著名なシリーズとなるピコロ(Piccolo)の製造を開始。1/90・HOスケールで、窓の抜けていないシングル・キャスティング(一発抜き)の車体にホイルを付けた、可愛らしいモデルたちです。「ズィンバ・ディッキー・グループ」にブランドが買収された後の現在でもリプロダクション(再生産)品が多く生産させているのでお馴染みと思いますが、1950〜1960年代のシュコー・オリジナルは稀少です。
ピコロ・シリーズには700番台の品番が付されました。

上はシュコー倒産後の「TRIX」時代のもので、ニュルンベルク赤十字博物館の特注品。これも小さいながら、ちゃんと窓3列の「27 Krankenwagen」になっています。倒産前のピコロはあくまでシュコー社としての通常品が主体で、「特注」とか「イヤーセット」などが活発に作られるようになるのは倒産後です。



小スケールの800シリーズのVW-T2救急車
品番914番/全長67mm/1974年発売

ついで1971年には、1/66・小スケールのダイキャスト・ミニカーのシリーズを発表。
ピコロと違って、透明プラスチックのウインドを持つ、ダイキャスト・ミニカーとしては「通常」の仕上げのモデルたちで、800番台の品番を付されたことから、「800シリーズ」と呼ばれますが、品番が足りなくなって、一部には900番台の品番が付けられました。1976年の倒産まで生産されました。

シュコーが1/43のダイキャスト・ミニカーに参入したのは1972年と非常に遅く、600番台の品番が付けられているために「1/43スケール600シリーズ」と呼ばれます。610番の「アウディ80LS」から639番の「アウディ100」(1976年)まで約30種です。GAMAなどに比べると、シュコーの作った1/43ダイキャスト・モデルの数は圧倒的に少ないのです。



上はシュコー最末期、倒産した1976年発売のBMW525のノートアールツト(637番)。ケース台座のラベルにある「ツァーレークバール」というのは「分解可能」という形容詞で、分解・組み立ての見取り図が台座の裏に貼られています。テクノなどにもこうしたギミックを持つものがありました。
なかなか堅実なツクリで、サイドの蛍光レッドのストライプは塗装仕上げ、経年変化の影響もあまり受けていないようです。(現在のプラスチック部品を多用する中国ファクトリーには、かつての欧州メーカーの知見があまり受け継がれていないであろうことが大変に残念です。)

こうしたダイキャスト系ミニカーが600・700・800・900番台の3桁品番を持ちますが、それ以前のティンプレート系のマイクロレーサー/ヴァリアント/ミラコなどは全て1000番・3000番台などの4桁の品番を持ちます。

すぐに気が付くことですが、HOサイズのクルマをダイキャストで作るというピコロには独自性がありますが、小スケールの800シリーズ、1/43の600シリーズには、果たしてシュコーとしての独自性がどの程度あったのか、という点には甚だ疑問が残ります。現在のコレクターの目で見ればシュコーとしての「作風」と「味わい」があることは確かですが、当時の市場での存在意義が大きかったとは決して言えないでしょう。ドイツ国内でも小スケールではSIKUやWIKINGという先行メーカーがあり、1/43クラスでは「GAMA」が競合でした。
それに何と言っても、ティンプレート時代にあれほどの「シュコー・パテント」(特許)を連発したメカニカルなアイデアが、ダイキャストになってから全く活かされなくなってしまいました。
「新しいプラスチックやダイキャストへの転換が遅れた」点を経営が行き詰った原因に挙げる論稿が目立ちますが、例えボディの材質がプラスチックになろうが、ダイキャストになろうが、一部にティンプレートを残そうが、「ミラコ」の自動操行メカなどを発展させて搭載し続けるべきだったのだろう、と私は思います。
新素材とその生産技術の導入・転換を急ぐあまり、シュコーの「強み」の源泉であったアイデアや独自性を捨ててしまったのでは全く何にもなりません。つまりそれは新時代に対応した転換ではなく、結果的に自らの資源を放棄する「変革」だったことになります。



シュコーの1976年の倒産(破産)後、資産はイギリスの「DCM」(Dunbee Combex Marx Ltd.)社に売却されたものの、同社が1980年に再び破産。同年に競合だった「GAMA」社が購入。1993年には、「GAMA」と鉄道模型の「TRIX」が合併、1996年にはシュコー部門だけ再分離、1999年に「ズィンバ・ディッキー・グループ」(Simba-Dickie-Group)の傘下になると言う、複雑な経緯をたどっています。

ニュルンベルクの玩具メーカー史のところでご紹介したように、GAMA(ゲオルク・アダーム・マンゴールト)は1882年創業。トリックスは、1925年設立、1938年に「アンドレアス・フェルトナー玩具製造(ANFOE)」と統合、1971年に「GAMA」を統合して「トリックス-マンゴールト」となり現在も存続しています。戦前創業のニュルンベルクの企業の力でシュコーを再建しようとしたものの、トリックス社としてももはやその余力なく、鉄道模型事業への「選択と集中」のためにシュコー・ブランドと金型などを売却したのでしょう。
1/66小スケールの800シリーズの金型は、少なくとも一部がブラジルに渡り、1980年代に「Brinquedos Reis」のブランドで再生産されたものがあるようです。旧ビートルのブラジル・タクシーなどが存在します。特にVWはブラジルで実車を生産していましたから、この点はうなずけます。
また、700番台の航空機のモデルの金型などはシャバークに引き取られて再生産されたようです。

ピコロのシリーズについては1995年頃から再生産品が市場に出ていますが、これは「ズィンバ・ディッキー」以前の時期にあたっており、既に「TRIX」時代にピコロの再生産が行われていました。それを裏付けるようにもTRIX製のHOの貨車にピコロのメルセデス1936年レーシングを載せた製品(1996年1000個限定)や、VWビートルとポルシェ356を4台ずつ載せた自動車運搬貨車が作られています。
(Schuco Piccolo, Die Modelle von 1957 bis heute mit aktulen Marktpreise, bei Rudger Huber,Battenberg Verlag Augsburg 1998, p54)

ニュルンベルクの赤十字博物館は、シュコー製品ベースの特注品を数多く作っていますが、1999年限定版のピコロの救急車(VW-T1)は、まだ「ディッキー・シュコー」の表示の無いパッケージに収められていて、その住所はニュルンベルクのクロイル・シュトラーセ(Kreulstrasse 40. D-90408 Nuernberg)になっています。これは、トリックス社(Trix Modelleisenbahn GmbH & Co KG./GAMATRIXModelleisenbahn GmbH & Co. KG)と同一の住所です。(現在ではトリックスは、ゲッピンゲンのメルクリン社(Gebr. Marklin & Cie. GmbH)の傘下にあります。)
2000年限定版以降は、社名が「ディッキー・シュコー」、住所もフュルトゥのディッキーの所在地となったラベルが上に貼られたり、または最初から印刷されたものになりました。
私は、ピコロの再生産というアイデアは、ズィンバ・ディッキーによるものかと思っていましたが、そうではなく、それ以前のトリックス・ガマ時代から行われていたことになります。「HO」というピコロのスケールが、トリックスの鉄道模型と合致していたことから、彼らとしてもこれを活用出来ると考えたのかもしれません。しかし結果的にはトリックス・ガマはシュコーを再び手放すことになりました。



ニュルンベルク赤十字博物館の1999年限定品ピコロ(左)は、クロイルシュトラーセのTRIXの住所。
右のマルテザー仕様では社名はディッキー・シュコーになり、
住所もフュルトゥのディッキーの所在地に変更。


1999年になって「シュコー」ブランドを購入した「ズィンバ・ディッキー・グループ」は、フリッツ・ズィンバと、その息子のミヒャエルによって1982年に創業された、ニュルンベルクの玩具産業にとっては1世紀のギャップのある若い会社ですが、それでも今年25周年を迎えることになります。ニュルンベルクに隣接する街・フュルトゥにあります。
生産拠点はドイツ/イタリア/チェコ/ブルガリア/中国、そして販売拠点はポーランド/フランス/トルコ/オーストリア/ハンガリー/スペイン/ルーマニア/スイス/アメリカ/香港におよびます。
約300億ユーロの売上げのうち、約50%を輸出が占めます。
1986年に日本の田宮模型の販売代理権を獲得。1993年には、スケール・スロットレーシングの著名ブランドであるスカーレックストリック、そして1999年には「シュコー」のブランドを手に入れました。

ピコロ/マイクロレーサーなどの、シュコーの旧製品のリプロダクション(再生産)に熱心で、1950〜60年代のオリジナル品が高価であることから、コレクターはこれらの再生産商品の恩恵に預かることになりました。一方でズィンバ/ディッキー・トイズにしてみれば、乳幼児向け玩具のメーカーというイメージから、非常に伝統あるブランドの高品質感を手に入れることになったわけです。
(現在は、「ズィンバ・トイズ」という社名の会社は、グループの合衆国における販売を担当しているようです。)



ディッキー以降のシュコーモデル。ハノマークL28(2006年・左)とVW-T1(2004年・右)
ともにニュルンベルク赤十字博物館特注品。(1000台の限定)
アイボリー色(ヘル・エルフェンバイン)の塗装にCKOなどのブリキ玩具の余韻を感じるのは、
ニュルンベルクの伝統を熟知した赤十字博物館のディレクションが良いからなのかもしれません。


ディッキー・シュコーの現在の社史には、シュコー倒産の原因を「ダイキャストやプラスティックが市場の主流になる中で、的確なタイミングでの事業のシフトが出来なかった」こととしています。
これは、ニュルンベルク玩具博物館館長(Leitung)・ヘルムート・シュヴァルツ博士の論稿(『ニュルンベルクの玩具製造および貿易の歴史』/HISTORY OF THE NUREMBERG TOY TRADE ANDINDUSTRYby Dr.Helmut SCHWARZ - Director of the Spielzeugmuseum of Nuremberg)中にある、
『既に1950年代というかなり早い段階で登場していたプラスチック製の安価な玩具が、その後にこれほどの成功を収めることが予測できなかったことがあげられます。金属玩具製造メーカーは、かつて自分たちが木や紙・陶器などの玩具を駆逐して成長したにもかかわらず、新しい素材がそれと同じ現象を自分たちにもたらす、ということに考え及ばなかった』 という指摘と同じものです。

以前にフランスの「CIJ」や「J.R.D」の歴史を調べていた時にも、同じような指摘に出会いました。
しかし本当に、ニュルンベルクの伝統的玩具ブランドの落日は、「金属かプラスチックか」という「素材選択」の問題だけに起因しているのでしょうか。



2005年のフォード・タウナス・トランジートFK(左)と、1940年代末のヴァリアント・ザニ(右)には、
製造年で50年の差があります。
同じ「シュコー」のブランドを持つこの2点に、ニュルンベルクの伝統は継承されているでしょうか。
(ただしフォードFKはニュルンベルク赤十字博物館特注品


かつてのニュルンベルクの玩具メーカーは、全てが「職人集団」だったのです。ギルド的な生産から、近代的な工場生産へと、様式自体は変化したとは言え、『自分でプランを練り・メカを考え・自分たちの手で造り上げる』という『職人魂』を基本としていたことには疑う余地がありません。シュコーのハインリヒ・ミューラーも、CKOのケラーマン一族もみな「職人」でした。
しかし、現在のズィンバ・ディッキーの成長を見てみると、それは『売れるものを企画し・人に造らせ・仕入れる』というビジネスモデルであることがわかります。つまり非常に「商社」的なのです。敢えて『職人魂』との対比で言えば、『商人魂』と言うことができるでしょうか。

現在のシュコーの1/43製品は中国製、また1/87や、1/72などの「ジュニアライン」と称される製品は、香港の「ホンウェル」や「ハイスピード」などのOEM供給を受けています。ただし裏板にホンウェルのモールドはなく、シュコーのロゴタイプが白でプリントされます。ピコロやマイクロレーサーなどの復刻品は、元をただせばミューラーをはじめとする旧シュコー社のアイデアです。

いまでも、シュコーやCKOの古い製品は、オークションなどに定期的に出品されていて、高額で取引されています。それはコレクターが、そうした『職人魂』の姿勢から生み出された「モノ」としての玩具のクォリティに、高い評価をしているからです。決して単に「著名ブランド」の製品だから高いわけではありません。私は決して『商人魂』を否定しませんし、『職人魂』とどちらが優位か、という問題でもないと思っています。『職人魂』が、ともすると製造者側の論理だけに陥りやすいことも承知しているつもりです。

そうであればこそ、「商社」的視点を持った現代の玩具産業は、単に一時だけ売れるものを追求するのではなく、本当にいいものを発見し、育て、それらの「モノ」としてのクォリティを維持する努力を続けて欲しいと思います。


     




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