Nostalgic Patrol Cars Season 2

「オスタルギー」の緊急車(1)


Die Krankenwagenmodelle aus der DDR und der Tschechoslowakei (1)






 オスタルギー・ミニカー
 'Ostalgie'



「オスタルギー」という言葉をご存知でしょうか。
最近、ドイツのネットオークション(eBay.de)で、良く見かけるようになりました。
ドイツ語の「オスト」(東)と、「ノスタルギー」(郷愁)から造語された言葉で、「東への郷愁」とでも訳すのが適切でしょうか。言うまでもなく、「オスト」とは、旧東ドイツのことです。

「eBay.de」には、そもそも「DDR & Ostalgie」というカテゴリーさえあり、17600点余の出品があります。
DDR(デー・デー・エァル)とは、「ドイチェ・デモクラティーシェ・レプブリーク」、ドイツ民主共和国=旧東独のドイツ語略称です。

出品物を見てみると、旧東ドイツ関連の書籍、軍や警察関係の制帽/制服/徽章の類は言うに及ばず、様々な日用品、道具類、玩具類など、ありとあらゆるものに及びます。
この中には、単に旧東独時代の物品を売り払っている、というだけではない、純粋に「オスタルギー」商品と呼ばれるものがあり、旧東独時代の歩行者用信号機のシンボル(帽子をかぶった人が歩いている図柄)を形どった、「アンペルメンヒェン」というキャラクターのグッズや、旧東独の国旗や国章をTシャツにした商品などが含まれます。いずれにしても「オスタルギー」は、政治的なものではなく、極めて生活感に溢れたものであることが想像できます。

旧東独は、シュタージ(シュタート・ジッヒャーハイツ・ディーンストの略。国家保安省)による国民監視政策や、「壁」や「国境」を超えようとする者に対する「射殺政策」などで、「悪名」をはせました。
本来であれば、「念願」のドイツ統一を果たした旧東ドイツ住民が、「オスト」(東)への郷愁を感じるという事態は考えにくいことで、むしろ東西に「壁」があった時代には考えられなかったことと言わなければなりません。
1989年11月9日のベルリンの壁崩壊から既に18年、不思議な「オスタルギー」現象と、そして旧東独/チェコスロバキア時代に作られた救急車モデルのいくつかを、ご紹介してみたいと思います。
(2008/1/2)


-『東欧の20世紀』・高橋秀寿/西成彦編・人文書院・2006年
-『20世紀ドイツ史─シリーズ・ドイツ現代史T』石田勇治・白水社・2005年
-『ベルリン陥落1945』アントニー・ビーヴァー/川上洸訳・白水社・2004年
-『ベルリンの壁の物語(上)』クリストファー・ヒルトン/鈴木主税訳・原書房・2007年
-『ドレスデン逍遥─華麗な文化都市の破壊と再生の物語』川口マーン惠美・草思社・2005年




Quellenverzeichnis
-Feuerwehr- und Rettungsfahrzeuge der DDR 1945-1989,Eine Dokumentation von Detlef Nase, Schrader-Motor-Chronik, Schrader Verlag, Stuttgart 1999
-Christian Suhr, DDR-Feuerwehr-Klassiker mit Fotos von Ralf Weinreich, Motorbuch Verlag,
Stuttgart 2006
-100 Jahre Sanita"ts- und Krankenfahrzeuge, Udo Paulitz, Franckh-Kosmos Verlag,Stuttgart

2003
-Achim Schmidt, Polizeifahrzeuge in Deutschland von 1945 bis Heite, Verlag Podzun-Motor-
bu"cher, Brilon 1998
-Katl Anweiler/Ju"rgen Olate/Manfred Pahlko"tter, Rad und Kettenfahrzeuge der Bundeswehr
in den 90er Jahren, Motorbuch Verlag, Stuttgart 1999
-Frank Schwede, Deutsche Polizeifahrzeuge 1945 bis heute, Motorbuch Verlag, Stuttgart 2000


'Ostalgie'
Momentan ko"nnen wir viele Artikels finden, die sind genannt 'Ostalgie' und 'DDR' kategorisiertist auf ebay.de. Viele Spielzeuge und Zinkdruckgussmodelle sind miteingeschlossen.
Machen Sie warum deutschen Bu"rger sind gefallen nostalgie zum 'Osten'?
Macht einen grossen Teil, von den sie fu"hlen Heimweh im 'Osten'?
Wir fragen uns an dieser Situation.

Ich erwarte, dass dies keine politische Materie ist. Ich glaube, dass der Burger im Gebiet vom
'Osten' liebt ihre Stadt, die Umwelt, Lebenwerkzeuge und Lebenskultur lebt. Sie machenesziemlich gleich, als die 'Westlichen' Leute so es machend.

Beide von Modellen, die hergestellt werden, bevor und nachdem das eingegliederte Deutschland sehr interessant ist. Geniessen Sie einige 'Ostalgie' Artikels aus Deutschland und fu"hlen Siedie urspru"ngliche Kultur vom 'Osten' in Mehrere Krankenwagenmodelle aus Alter von DDR undder Tschechoslowakeien.



フラーモV109/グレール・モデル
Framo V 019 Krankenwagen aus Grell Werbemittel GmbH & Co. KG, Bielefeld
Ein besonderes angeordnetes Modell durch den sammlershop Grosshandel Wanka,Limbach-Oberfrohna



ハナシが固くなり過ぎるのを防ぐために、まずはミニカーをご覧に入れることにしましょう。
1940〜50年代を予感させるクラシカルな救急車モデル、ブリスターカードには旧東独国旗/国章/カール・マルクスの100DDRマルクなどの紙幣群/そして社会主義建設成功の喜びを満面の笑みで表現する男女…。『いったいこのモデルは、いつの、どこのメーカーが作ったもの?』というのが最初の疑問であり、驚きでした。

ネットオークション上で最初に見つけた時点では、画像左のモデルがブリスターから出されたルース状態で、パッケージを見ることが出来なかったため、そのクラシカルにして魅力的なボディスタイルからして、旧東独時代のモデルか、と浮き足だったのです。その後、他にもバルカスB1000(後述・上の画像の右のモデル)の救急車や消防、ヴァルトブルクのフォルクス・ポリツァイ(人民警察)仕様などがあることがわかり、パッケージの状態も確認できたため、かなり最近のモデルであることが推測できるようになりました。「社会主義礼賛」的なパッケージの佇まいも、ワザと演出されたものなのです。

ドイツから届いた現物の裏板には「Grell Modell」と「CHINA」のモールドだけがありました。品番も車名も何も書かれていません。「Grell Modell」(グレール・モデール)は、Grell Werbemittel GmbH & Co.KG(グレール・ヴェルベミッテル・ゲーエムベーハー・ウント・コンパニー・カーゲー)という会社で、所在地はビーレフェルト(Bielefeld)市。ノルトライン・ヴェストファーレン州にあり、つまり旧東独地域ではありません。

社名にある「ヴェルベミッテル」は、「広告宣伝媒体」を意味します。「ヴェルベン」は「広告宣伝をする」という動詞、「ミッテル」は「手段」、というほどの意味です。ということは、セールスプロモーションの媒体として「ミニカー」のボディやパッケージを活用する、というビジネスをしていると考えられます。たいぶ以前に、マッチボックスの白塗りモデルに広告主のロゴやメッセージを印刷することをビジネスにしている「カラー・コンプ」という会社をご紹介したことがありますが、このビジネスのドイツ版ということでしょう。ミニカー以外の品物をメディアとしたビジネスも手掛けているようです。
所在地が旧西独地域にあるということからして、ドイツでの「オスタルギー」ブームに着目し、旧東独系車両の金型を1/64サイズ起こして中国で生産。広告主のマーケティングに寄与しよう、ということなのでしょう。



丁度ミニカーの背景部分になっているのは、1989年11月9日の「崩壊」現象の後に
落書きでいっぱいになった「ベルリンの壁」です。左下に車名の表記があります。


さて、まず上の画像のボンネット・タイプの救急車ですが、「グロースハンデル・ヴァンカ」というショップの特注品で、同店は「ドイツ最大級のコレクターショップ」をうたっています(www.truckhotline.de)。
同店はリムバッハ・オーバーフローナという街にありますが、ザクセン州・ケムニッツ近隣(ケムニッツァー・ラント)にあります。もちろん旧東独地域で、旧東側地域からの「オスタルギー」商品の仕掛け人のひとつと考えられます。
このモデルを購入した出品者の所在も、カーラ(Kahla)市、テューリンゲン州(Freistaat Thuringen)・ザーレ・ホルツラント・クライス(Saale-Holzland-Kreis)にあり、旧東独地域です。
彼は出品タイトルの中に明確に「オスタルギー」をうたっていました。
旧東独地域の複数のショップなり、コレクターなりが、企画特注の主体として関与することで、このシリーズを支えているようです。

このモデル、裏板に車種は特定されていませんが、ブリスターカード左下に小さく「フラーモ・クランケンヴァーゲン」の表記があり、「フラーモ(Framo)V 901」のようです。「フラーモ」は、1930年代に小型の乗用車や商用車を作っていたメーカーでした。
1923年・ザクセンで「フランケンベルク金属工業」(メタールヴェルケ・フランケンベルク)として創業し、DKWその他のメーカー向けのオートバイ用部品などを生産していましたが、1933年にハイニーヒェンに移転、1934年に「フラーモ・ヴェルケ」(Framo-Werke GmbH)に社名変更し、自動車製造を手がけるようになります。この中には、前2輪・後1輪というユニークな3輪車である「FP 200」などが含まれます。

第2次大戦後は、ザクセンのハイニーヒェン(Hainichen)にあった工場はソ連占領地域であっため、その後東独領となりました。フラーモ工場は東ドイツ人民公社(VEB/ファウ・エー・ベー=VolkseigenerBetrieb/フォルクス・アイゲナー・ベトリープ)の経営によるところとなりました。

V 901/V 902 のシリーズは、1953年から1961年の生産の小型トラック〜小型バンで、900cc/28馬力エンジンを積んでいました。VEB傘下でのフラーモ工場製品も、その後は「IFA」(Industrieverwaltung Fahrzeugbau/インドゥストリー・フェアヴァルトゥング・ファールツォイクバウ=産業統制車両製造)の名を冠されるようになりますが、V 901/V 902 のシリーズは「フラーモ」の車名を継承して作られていたようです。V 901/V 902 のシリーズは、その後の「バルカスB1000」(後述)の成功につながって行くことになります。



シュトゥットガルトのシュラーダー出版というところから、「東ドイツの消防車と救急車・1945-1989」
(Feuerwehr- und Rettungsfahrzeuge der DDR 1945-1989,Eine Dokumentation von Detlef Nase,Schrader-Motor-Chronik, Schrader Verlag, Stuttgart 1999)という本が出ていて、こうした書籍の存在自体が「オスタルギー」の社会現象化を示しているのですけれど、この中に「フラーモ V901 救急車」のフランス向けカタログ中の図版が掲載されています。搬送できる担架は1基のようです。
説明文の車名は既に「バルカス(Barkas)」になっていますが、この点については後述することにしましょう。フランス版カタログが存在するということは、フランス語圏に輸出されたのでしょうか。(例えば旧フランス領アフリカの社会主義政権とか。)

ページ右上の「Sankra」(ザンクラ)というのは、「Sanita"tskraftwagen」(ザニテーツクラフトヴァーゲン)の略で、救急車の「東」における車種分類呼称です。(「西」では、「クランケンヴァーゲン(患者車)」「クランケントランスポルトヴァーゲン(患者搬送車)」「レットゥングスヴァーゲン(救助車)」で、「ザニテーツクラフトヴァーゲン」は見かけません。)
『言語は血よりも濃い』という、フランツ・ローゼンヴァイクという人の言葉があるのですが、同じドイツ語を使いながら、「西」と「東」での用語や名称は少しずつ異なっていった、ということでもあるのです。西ドイツが「ドイツ民族はひとつ」という視点で一貫していたのに対して、東ドイツは、「社会主義的なドイツ民族」と、「そうでないドイツ民族」が存在すると言う、「2民族・2国家」論を展開していました。



ブリスターを破る決断がつかず、お見苦しい画像でご勘弁ください…。
赤十字のプロポーションがおかしいのはこのモデル特有のもので、
「東」においても使用された赤十字標識は「西」と共通のものです。


この「フラーモ V901」、1953年から1961年の生産というにしてはボディ・スタイルがクラシカルで、西独車やアメリカ車であれば1940年代ぐらいの感覚に近いと思われるでしょう。
一般に、東ドイツの工業技術が西よりも「遅れている」というイメージを持たれていると思いますが、これには次のような事情があるのです。

(1)第2次大戦が終わった時ソ連は、ソ連占領地域内にあったドイツの工場設備などを大量に自国(ソ連)に持ち去りました。ソ連はドイツによって極めて甚大な人的・経済的被害を被った、という「事実」があり、それを「賠償させる」という「名目」でこれらの設備を持ち去ったのです。これによって、ソ連占領地域の工業は復興が遅れました。米・英・仏は(兵士による個人的な略奪行為は否定できないものの)組織的・国家政策的な収奪は行っていないので、このことは、結果的に東─西の経済的格差を産む伏線となって行きます。
自動車生産に関して言えば、実は東独領となったザクセンはドイツでも最も早く自動車産業が興された地域のひとつであり、戦前はホルヒ/アウディ/DKW/ヴァンデラー/フラーモといった自動車メーカーがありました。

(2)「ニュルンベルクのブリキ救急車(1)」のところで、「U.S.Zone Germany」のお話をしましたが、「西」側の工業的・経済的復興が早かったのは、アメリカをはじめとする西側のマーケットに輸出できる、という恩恵を背負ったからでした。そのため、玩具や精密機器のような「軽い」モノから始めて、やがて自動車や航空機などに至るまでの重いモノの製造業をも急速に復興させて行ったのです。ソ連と東欧社会主義圏を「マーケット」とする東独工業は、この点でも格差を享受せざるを得ませんでした。東欧圏での消費財の購買力が低かったためです。

(3)社会主義経済下では、基本的に「競争」がありません。もちろん派閥だとか、目標達成とか、党幹部の心象といったレベルでの人民公社間での競争はあるかもしれませんけれど、「顧客がいかに自社製品を購入してくれるか」といった本来的な意味での競争原理ははたらかないわけです。したがって、マイナーチェンジ/フルチェンジをして少しでも製品を「魅力的に見せる」必要がなく、十年一日の如く同じボディを背負うことになりました…。


バルカスB1000/グレール・モデル
Barkas B1000 Krankenwagen aus Grell Modell, Bielefeld



これが先にお話した「バルカスB1000」。「グレール・モデール」による同一シリーズ中の製品です。

購入先は「フラーモ」とは違う人ですが、住所は同じザクセンのケムニッツ市で、やはり旧東独地域の住人です。ケムニッツは、アウトウニオンに統合される以前のヴァンデラー社のあった街です。
ドイツ映画『ドレスデン』の中で、『攻撃目標はケムニッツまたはドレスデン』というセリフとして登場します。

ブリスター・カードの前面に書かれているように、ギュンター・ブァップラー(Gu"nther Wappler)という人の、「フラーモとバルカス──ザクセン生まれの2サイクルエンジン・トランスポーターの物語(歴史)」(Framo & Barkas──Die Geshichte der 2-Takt-Transporter aus Sachsen)という本の出版を記念して作られたプロモーショナル・モデルで、ブリスター・カードは当該書籍の表紙と同じデザインになっています。カードにある「www.framo-barkas.de」にアクセスしていただくと、同書のプロモーション・サイトを見ることができます。書籍そのものもオークションサイト上に出ていましたが、『ドイツ国内にしか発送しません』『送金はドイツ国内の銀行口座へ』という手ごわい条件だったので、未入手です。
ただこれで、「グレール・ヴェルベミッテル」が、プロモーション媒体としてミニカーと、そのパッケージを使ったビジネスをしている、ということの意味が明快になりました。



ブリスター裏面は、バルカスの方は裏にまで「みっちり」と書籍のプロモーション。上下にバナーを載せているのは、フラーモの実車オーナーのクラブ(www.framo-jens.de)と、トゥームという街の看板・広告屋さん(www.wms-thum.de)です。別料金を取って別広告を載せているのでしょう。ちゃっかりした商売です。右は「グロースハンデル・ヴァンカ」特注品のフラーモのもので、何も印刷なし。

「フラーモ V 901」を生産していた、ハイニーヒェンのフラーモ工場(VEB Barkas-Werke Hainichen)は、1957年に「ハイニーヒェン・バルカス工業人民公社」(VEB Barkas-Werke Hainichen)に名称変更。
1958年にはカール・マルクス・シュタットに移転して、「カール・マルクス・シュタット・バルカス工業人民公社」(VEB Barkas-Werke Karl-Marx-Stadt)となりました。したがって、1957年以降は「フラーモ」の車名は消えて、「バルカス」を名乗るようになるのです。



「カール・マルクス・シュタット」は1953年に改名された街で、ドイツ統一後の住民投票により、それ以前の旧名である「ケムニッツ」に戻されました。つまり、このミニカーの出品者の住んでいる街です。
彼はケムニッツの教会を描いたクリスマス・カードを同封してくれました。
(ちなみに「カール・マルクス」本人はモーゼル河畔・トリーアの出身で、ケムニッツの出身ではありません。)

バルカスB1000は、東ドイツにおける最も成功した車両のひとつで、1961年から1991年の間に25万台も生産されました。1961年登場時には、ヴァルトブルク製の3気筒・900cc・43馬力エンジンを積んでいましたが、その後1000cc・46馬力エンジンに換装され、バルカスB「1000」の名称の由来となります。
ドイツ統合後も生産され、1989年秋以降のバージョン(Barkas B1000-1)は、VWのエンジン(1272cc/58HP)をライセンス生産して搭載しました。



救急車としては、担架を上下2段にして、2基搬送できたことが、パッケージの写真で確認できます。
ミニチュアは車体後部に窓の無いバン(カステンヴァーゲン)型ボディになってしまっていますが、実車の救急車ボディは側面窓のあるマイクロバス(クラインブース)型です。

もちろん、バルカスB1000は救急車専用車両ではなく、東独で極めて普及したトランスポーター/マイクロバスでした。警察/小型消防車/軍用などにも使われています。いわば東における「VW-T1/T2」と言えるクルマです。



バルカスB1000(消防)/グレール・モデル
Barkas B1000 Feuerwehr mit anha"nger aus Grell Modell, Bielefeld
Ein besonderes angeordnetes Modell durch den sammlershop Grosshandel Wanka,Limbach-Oberfrohna



同じく「グレールモデール」の「バルカスB1000」ですが、赤の消防仕様とし、トレーラーを引かせたもの。フラーモと同じく、リムバッハ・オーバーフローナのショップである「グロースハンデル・ヴァンカ」の特注品。

ブリスターカード前面は、どうしたものか「マルクノイ・キルヒェン」(新教会印、といった意味)というピルゼン風の地ビールのプロモーションになっています。消防ミニカーとは何ともミスマッチです。この地ビール醸造所の所在地は、フォークト・ラントという、ザクセンの山岳地帯ですが、バルカスの消防車とどういう因果関係にあるのかは書かれていません。実車写真が印刷されていることから想像して、この街やビール会社の消防隊と何らかの関係があるのかとも思ったのですが、どうやら単なるビール会社を広告主としたプロモーションのようです。
引いているトレーラーは、一般乗用車用のキャンピング・トレーラーと同じもので、インテリアは何も入っていません。水槽車か何かに見立てているのでしょうが、バリエーション・モデルとしては少々ムリがあります。

シュトゥットガルトのモートーア・ブーフ出版は、旧東ドイツ時代の消防車を撮影した大判の写真集(
Christian Suhr, DDR-Feuerwehr-Klassiker mit Fotos von Ralf Weinreich, Motorbuch Verlag,Stuttgart 2006)を出していますが、ラルフ・ヴァインライヒというカメラマンの撮った鮮明にして美麗な写真は、旧東ドイツ時代の消防士のユニフォームを着込んで、統一後の最近に取られたものとしか思えません。「オスタルギー」現象は、地域の消防隊にまで及んでいるということでしょうか。



バルカス消防仕様のカード裏面にある、リムバッハ・オーベルフローナの「グロースハンデル・ヴァンカ」のシグネチュア(出所表示)。『ドイツ最大級のコレクター・ショップ』をうたっています。営業時間は月曜〜金曜の10時から16時。つまり土日は休んでしまうわけです…。



ヴァルトブルク311(東ドイツ人民警察)/グレール・モデル
Wartburg 311 Volkspolizei aus Grell Modell, Bielefeld
Ein besonderes angeordnetes Modell durch den sammlershop Grosshandel Wanka,Limbach-Oberfrohna



お話しは「バルカスB1000」でつなげて行きたいのですが、「グレールモデール」の別のモデルを先にご紹介しておきましょう。

同じく「グロースハンデル・ヴァンカ」のショップ特注品は、「東ドイツの乗用車」(DDR-PKW-Modell)というシリーズを展開しており、この中には小スケールでは大変に貴重な、東ドイツ人民警察(フォルクス・ポリツァイ)のポリスカーが含まれています。
ブリスターカード裏面にあるように、バリエーションを含めて入手した製品の発売時点で16種をラインアップしています。「PKW」(ペーカーヴェー)というのは「ペアゾーネン・クラフト・ヴァーゲン」(Personenkraftwagen)の略で、「乗用車」のことです。




丸っこい旧型ボディを持つ方は、ヴァルトブルク311。シリーズ「No.12」で、1600台の限定。
「ヴァルトブルク(Wartburg)Typ 311」というのは、VEBアウトモビルヴェルク・アイゼナハ(VEBAutomobilwerk Eisenach=AWE、アイゼナハ自動車製造人民公社)が1955年から生産した乗用車です。

この工場は、戦前はBMWのアイゼナハ工場(テューリンゲン州)でした。米軍占領、テューリンゲン州のアメリカからソ連占領地域への移管、ソ連による会社保有、1951年の東独への返還(アイゼナハ・モトレーンヴェルク/Eisenacher Motorenwerk=EMW)、1953年の「AWE」への社名変更、という複雑な経緯を辿っています。W311は、EMW時代に生産していた旧型DKWやBMWからの「飛躍」をはかった「新型車」だったのです。



ヴァルトブルク353(東ドイツ人民警察)/グレール・モデル
Wartburg 353 Volkspolizei aus Grell Modell, Bielefeld
Ein besonderes angeordnetes Modell durch den sammlershop Grosshandel Wanka,Limbach-Oberfrohna



同じく「グロースハンデル・ヴァンカ」のショップ特注品で、ヴァルトブルク353の人民警察(フォルクス・ポリツァイ)仕様。シリーズ「No.3」、1600台の限定は変わらず。

「W353」は、1966年から投入された「W311」の後継車。
その後4サイクルエンジンへの換装などの改良が試みられたものの、このクルマも「競争なき社会」でのご他聞に漏れず、モデルチェンジはされなかったようです。
1988年からは、フォルクスワーゲンの4サイクルエンジンをライセンス生産して搭載しました。

このように「人民警察」の車両までが「オスタルギー」の対象になるのですね。ドイツのネットオークション上では、1/43バルカスB1000のハンドメイド・モデル(人民警察仕様)も見ました。



ヴァルトブルク・エステートワゴン(消防)/グレール・モデル
Wartburg Camping Feuerwehr aus Grell Modell, Bielefeld
Ein besonderes angeordnetes Modell durch den sammlershop Grosshandel Wanka,Limbach-Oberfrohna



これも「グロースハンデル・ヴァンカ」のショップ特注品で、ヴァルトブルク「キャンピング」の消防仕様。

このあたりになって来ると、色替えバリエーション・モデルの香りが漂っていて、「キャンピング」の消防仕様が実在するかどうかは少々疑問とするところでしょうか。



ブリスターカードのデザインは、言わずと知れたベルリンの「ブランデンブルク門」ですが、大書きされている「ヴァルトハウスト(Waldhaus)」は、またしてもシュヴァルツ・ヴァルトのビールブランドで、『エアフルトで最初のホテル醸造所』(Erste Erfurter Gasthausbrauerei)と読めます。 エアフルトもテューリンゲンにあり、ヴァルトブルク工場のあったアイゼナハの東30kmほどのところです。

「ガストハウス(ゲストハウス、つまりホテル。レストランに併設されていたりする、小規模な旅館の感じ)」と「ベルリンの壁」の関係に、ひとしきり首をひねったのですが、どうやらカードのデザインやミニカーの車種とは直接関係なく、旧DDR地域の企業の広告掲載をしてお金をとっているということなのでしょう。



バルカスB1000救急車/ブレキーナ・1/87
Barkas B1000 Krankenwagen aus Brekina-Modellspielwaren, Teningen
Deutches Rotes Kruez der DDR Dresden, Krankentransport Wagen Nr.18



話をバルカスの救急車に戻しましょう。
プラスチック製HOモデルで著名なブレキーナは、フランス/スイスに接するドイツ南部、ヴァーデン・ヴュルテンベルク州のテニンゲンという街にあり、ここは旧東独領ではありませんが、近年「DDR-プログラム」を熱心に展開していて、IFAのバスや、旧東独の乗用車として著名なトラバントやヴァルトブルクなどをモデル化しています。

バルカスB1000では、ノーマル仕様のマイクロバス(ドイツ語ではクラインブース)を作っていましたが、2007年にカステンヴァーゲン(車体後部窓を塞いだバン)と、DRKの救急車などが追加されました。



ブレキーナのカタログに掲載されている、「DDRプログラム」の新製品


ブレキーナが「DDR-プログラム」を展開すること自体を、「オスタルギー」現象の一環と見ることが出来るでしょうが、窓回りのサッシ、詳細なマーキング、光沢のあるボディと繊細なモールドなど、最高水準のクォリティで旧東独車のモデルが見られるのは、有難いことだと言えるでしょう。

運転席/助手席には、「Deutches Rotes Kruez der DDR Dresden」(ドイチェス・ローテス・クロイツ・デア・デーデーエァル/ドレスデン)のプリントがあります。「der DDR」は女性単数2格で、「DDRの」という意味になります。ドイツ赤十字(DRK)は、1945年のドイツ降伏時に東西にかかわりなく存在していましたから、ソ連占領地域、そして東ドイツでも「DRK」として存続し続けたのです。ただ、西独の「DRK」と一体の組織ではありませんでしたから、「DRK der DDR」とか、「DRK Ost」(オストは「東」)といった形で識別して表記されました。ドレスデンは言わずと知れたザクセン州の州都、旧東独領です。



バルカスB1000救急車/エスペーヴェ・1/87
Barkas B1000 Krankenwagen aus Espewe Modelle, VEB Spezialpra"gewerkeAnnaberg-Buchholz
Deutches Rotes Kruez der DDR



ここまでご覧にいれたミニカーは、「オスタルギー」現象の中で、ドイツ統一後の近年に制作されたモデルたちでした。しかしコレクター心情としては、旧東ドイツ時代に作られたモデルが見たくなりませんか?
ということで、(よせばいいのに)旧東独製救急車のオモチャ探しが始まったのです。

比較的簡単に見つかるのが、エスペーヴェ・モデーレ(Espewe Modelle)というブランドの製品です。正式名称は「VEB Spezialpra"gewerke Annaberg-Buchholz(ファウエーベー・シュペツィアール・プレーゲ・ヴェルケ・アンナベルク・ブーフホルツ)」と言いました。「VEB(ファウ・エー・ベー)」は前述のように人民公社、「プレーゲ」というのは「型押しする」といった意味なので、「特殊成型製作所」といった感じでしょうか。「アンナベルク・ブーフホルツ」は、工場の所在したザクセン州の地名です。アタマから通して言うと、「アンナベルク・ブーフホルツ特殊成型製作所人民公社」といった感じになります。

運転席/助手席に人形が2人乗っています。クルマに比べて人形のデキはイマひとつで、ほのぼのとした愛嬌があります。



「エスペーヴェ」は、ブランドとしては「Espewe」と綴られて使われましたが、由来は「Spezial Pra"geWerke」(シュペツィアール・プレーゲ・ヴェルケ)の頭文字を取って「S.P.W.」すなわち「エス・ペー・ヴェー」です。年代は特定出来ませんが、私の入手したモデルは紙箱に入って来ました。HOモデルで、こんなに「ちゃんとした」箱に入ったモデルを手にしたのは初めてです。
紙箱側面に、「SPW」のイニシャルをかたどったブランドシンボルが印刷されていて、ブランドの由来が良くわかります。ドイツ人というのは、こういう略号が大好きで、手紙やメールの最後に書く「ミット・フロイントリッヒェン・グリュッセ」(「敬具」というほどの意味)まで、「Mfg」と略したりします。



前出のグレールは「モデール」、エスペーヴェは「モデーレ」になっていますが、「モデーレ」は複数形です。「ヴェルケ」は単数の「ヴェルク」だと「仕事」「工業設備」、複数のヴェルケは「工業」「製作所」といった社名によく使われます。

東ドイツでは当然のこととは言え、プラスチック製ミニカーの生産までが人民公社で行われたのですね。少なくとも60年代からカタログを発行していたようです。



紙箱には「Art-Nr.1013/4」の品番がありますが、モデル裏面には車名/品番/ブランド名などのモールドは何もありません。

さらに箱には、「1.65 MDN」の価格も印刷されています。統制経済下にあった東ドイツでは価格の変動性が薄く、箱にプリントしてしまうようなことが出来たのでしょう。もっともダイヤペットなどでもかつては価格は印刷されていましたが…。「MDN」というのは「東ドイツ・マルク」で、1964年8月1日以降に改称された「Mark der Deutschen Notenbank」(ドイツ発券銀行マルク)を意味します。1968年1月1日からはドイツ発券銀行はドイツ国立銀行(die Staatsbank der DDR)に統合されて、通貨名も「DDRマルク」(Mark der Deutschen Demokratischen Republik」となるため、この箱は1964年8月1日から1968年1月1日までに印刷されたもの、と考えて良さそうです。

1964〜1968年の1.65 MDN がどれぐらいの価値か、というのは難問ですが、1971年(スミソニアン会議以前)に1USドル=360円=3.6西独マルクという資料があるので、これだと約165円、西独マルクと東独マルクは最大2倍の格差があったと言われるので、2倍すると330円。同時期のトミカ(1970年に180円)の同程度〜2倍の範囲内と考えて良さそうです。



バルカスB1000救急車(東ドイツ国家人民軍)/エスペーヴェ・1/87
Barkas 1000 NVA Krankenwagen aus Espewe Modelle



同じ金型をグリーンで成型し、NVAの軍用救急車としたもの。「NVA」は、「Nationale Volksarmee」(ナ
ツィオナーレ・フォルクスアルメー=国家人民軍)で、東ドイツ軍の正式名称でした。

赤十字はデカールやシールではなく印刷がされていて驚きます。テールランプ/ウインカー/前後ナン
バープレートにも色差しがありますが、これは手作業によるものかもしれません。
このモデルにも人形が2人乗っていて、「国家人民軍」兵士とはとても思えない、ひょうきんな表情をし
ています。別にこれはワザと「ひょうきん」に表現したわけでも何でもなく、車両の製作技術に対してフィ
ギュアの原型製作・成型技術が追いついていなかったということでしょう。

ロブールのトラックやバス、ブルドーザーなどと一緒になった軍用車4台セットにも同梱されて売られた
ようです。



バルカスB1000救急車(東ベルリン市消防)/s.e.s. 1/87
Barkas 1000 Krankenwagen Berliner Feuerwehr aus s.e.s



このモデル(画像右)も同じ金型ですが、成型色やマーキングのプリントが随分とスッキリしました。
マーキングは「ベルリン市消防」ですが、言うまでもなくこれは東ベルリン市のことです。

エスペーヴェによる先の2台よりも製作年次が遅いと考えられ、ブランド名が「エスペーヴェ」から「s.e.s.」に変更された時期のもののようです。




下段はブレキーナの最近のモデルですが、同じ1/87のはずながら、エスペーヴェ金型(上段)はブレキーナよりもわずかに小振り。ところがモールドは極めてシャープで、個人的な感想では「ヴィーキングもびっくり」というデキに思えます。「s.e.s.」時代のこのモデルでは、ブレキーナですら再現していない、患者搬送部のブラインドまであります。(紙箱はこのモデルに付属したものではありません。)



東ドイツの子供たちは、どんな玩具で遊んでいたのだろう…。
Welche Art der Spielzeuge haben die Kinder in DDR gehabt?



『善き人のためのソナタ』(第79回アカデミー最優秀外国語映画賞)という映画をご覧になったでしょうか。シュタージ(東ドイツ国家保安省)の士官であるゲルト・ヴィースラー大尉(彼はHGW]]Z(ハーゲーヴェー・ツヴァンツィヒ・ズィーベン)というコード名を持っていて、これが映画の結末で重要な意味を持ちます。)は、作家であるゲオルク・ドライマンの動向を日夜盗聴・監視しているのですが、ある日『この音楽を聴いてしまった人間は悪いことが出来なくなる』というソナタを、盗聴用ヘッドホンを通じて聴いてしまったために、思考と行動に異変が起きる、というストーリーです。

この中で、ヴィースラー大尉が盗聴任務を終えて帰宅するエレベーターの中で、子供と乗り合わせる印象的なシーンがあります。

『おじさんは本物のシュタージの人なの?』
  (Bist du wirklich bei der Stasi?)
『坊やは「シュタージ」が何だか知っているのかい?』
  (Weisst du u"berhaupt, was das ist, die Stasi?)
『都合の悪い人たちを、みんな連れていっちゃうんだって、パパが言ってたよ。』
  (Das sind schlimme Ma"nner,die andere einsperren, sagt mein Papi.)
『ほう、そうかい。何ていう名前だい? 君の…。』
  (So? Wie heisst denn dein...)
『僕の名前?』
  (Mein was?)
『……。そのボールの名前さ。』
  (...Ball. Wie heisst dein Ball?)
『おかしなこと言うね。ボールに名前なんか無いよ。』
  (Du bist aber lustig. Ein ball hat doch keinen Namen.)

『シュタージは都合の悪い人物を(刑務所に)連れて行ってしまう』と言っている父親のことを聞いて、シュタージ士官としての本能的習性から、つい父親の身元を確かめようとするのですが、彼は既に『善き人のためのソナタ』を聴いてしまっているために思い直し、「君の父親」でなく「君のボールの名前は何というのか」と言ってとぼけることになったのです。子供はサッカーボールを大事に抱えてエレベーターに乗っていました。

監視国家・暴力国家と言われようとも、東独地域にはひとつひとつの生活があり、そのための日用品も、玩具もあったということに思いを至らせてくれます。東ドイツ地域の住民もまたサッカー好きであり、1961年8月13日に「壁」が築かれる以前は、東西ベルリンの住民は自由に行き来して同じ試合を見に行っていました。
この映画の邦題は『善き人のためのソナタ』のソナタですが、原題は『Das Leben der anderen』と言います。『その後の人生』とか、『もうひとつの暮らし(命)』とか、色々な解釈の出来るタイトルだと言えるでしょう。

エスペーヴェのHOサイズのモデルは子供たちの玩具というよりは、コレクター向け商品であり、鉄道模型のアクセサリーであり、また外貨を稼ぐ輸出品としての要素もあったでしょうから、子供たちが普通に遊んだ玩具だとは思えません。では東ドイツの子供たちは、どんな玩具で遊んでいたのでしょうか。



バルカスB1000救急車/アンカー 1/25
Barkas B1000 Krankenwagen aus Anker Spielzeug, Eisfeld



全長20cmほどの、大柄なプラスチック製トイのバルカス1000。
パッケージに書かれている製造元は、「VEB Anker Mechanik Eisfeld」(ファウ・エー・ヴェー/アンカー・メカニーク/アイスフェルト)。例によって「VEB」は人民公社で、「アイスフェルト」はテューリンゲンの街の名前。「アイスフェルト・アンカー機械人民公社」ということになります。ブランド名は「アンカー」で、「錨」のシンボルマークを使っています。紙箱の側面に、4.35DDRマルクのスタンプ。すなわち1968年1月1日以降の製品。



スケールは1/25と表示(パッケージの「M」は「Massstab」(マースシュタープ)で「縮尺」の意味)されていますが、1/87モデルをそのまま大きくしたような密度感で、現在の日本のコレクターが収集するような対象ではないでしょう。しかし、プロポーションは意外にしっかりとしていて、日本製のブリキ玩具などとは異なるスケール性を持っているモデルです。

社名に「メカニーク」とある割には、複雑なメカが搭載
されているわけではなく、後輪にフリクション動力、前輪は1本の車軸ながら、左右一段階ずつに「ステアリング」することができます。
屋根上の青灯は一応透明ですが、特に点滅機能などが付いているわけではありません。
室内はガランドウで、担架どころか、運転席も含めて何もありません。
赤十字は紙シール、フロントのグリルはブリキのプレスが付けられている「素朴」なモデルです。

資料(Achim Schmidt, Polizeifahrzeuge in Deutschland von 1945 bis Heite, Verlag Podzun-Motor-
bu"cher, Brilon 1998)によると、バルカスB1000・救急車タイプの全長は4520mm(同書p30)なので、前後バンパー間の全長174mmのこのモデルのスケールは1/26ということになります。
ちなみにエスペーヴェのモデルは50mmなので1/90.4、ブレキーナは全長51mmなので、1/88.6という数字になります。かつて西独のヴィーキングも、ドイツ的メートル法(10進法)にしたがって、HOを「1/90」と表示していたことを想起させます。



裏面は、マフラーやデフ・ギアなどの「そこそこ」のモールド。
車名やブランド名の表記が無いのは、東ドイツ製モデルの「伝統」でしょうか。
前輪は、左右1段階ずつ、長いシャフトのままでステアリングします。
後輪にはフリクション動力が付きます。

ドイツのネットオークション上で、かなりの数の出品を見かけますので、おそらくは東ドイツでかなりポピュラーな玩具だったのではないかと想像します。

パッケージにはルーフ・ラックを背負った消防仕様も描かれています。ネットオークション上の出品で、ルーフ・ラックを付けた救急車も見ましたが、はたしてそういうバリエーションがあったのか、消防用のラックを誰かが救急車に付けただけなのかは定かではありません。たぶん後者でしょう。

東ドイツには、SMH(Schnelle Medizinische Hife/シュネーレ・メデツィニッシェ・ヒルフェ)、直訳すると「高速医療救助」とでも言うべきシステムがありました。つまり救助要請をすると救急車が駆けつけてくれる仕組みには変わりはなかったのです。バルカスはその中でも多用された車両だったはずで、子供たちが「ウーウー」と言いながら救急車のオモチャを走らせる光景は、「東西」を問わず同じだったと言えるでしょうか。




バルカスB1000救急車/IGRA(チェコスロヴァキア)
Barkas B1000 Krankenwagen aus IGRA, Tschechoslowakei



どうも旧東ドイツ製モデルはHOの小さなものや、1/25サイズの大きなもので、1/43クラスのものが見当たりません。そう思っている時に、手ごろな大きさのバルカスのモデルを見つけたのですが、側面に書いてあるのは、ドイツ語ではなくてチェコ語でした。

メーカーはプラハの「IGRA」で、この会社は最近でも1/87・プラスチックのモデルを生産していました。その後ドイツのリーツェのカタログに「IGRA」製品が掲載されたそうですが、近況は確認出来ていませんので、消息が気になります。東ドイツであれ、チェコであれ、自由経済への急激な移行は、各メーカーを熾烈な競争市場に巻き込んだため、息切れをして倒れてしまった会社も多いからです。

モデルの年代を特定できる資料は持っていませんが、フロントのナンバープレートに「IG 1967」のモールドがあり、1967年頃の製品であることを予感させます。1993年1月にチェコとスロバキアに分離する以前の「チェコスロバキア」時代のものであることに疑いはありません。
東ドイツ製バルカス(実車)が、チェコ国内で救急車として使用されたことをうかがわせます。

窓が抜けていないために、極めて稚拙な玩具に見えるかもしれませんが、成型そのものはなかなかシャープで、窓をツブしているのは、子供が遊ぶ際の強度を考慮してのことだと想像します。

チェコスロバキアには、プラスチック製キットの世界で「KP」というブランドがあり、なかなか良質で稀少な航空機(ソ連機やチェコスロバキア機)のモデルを作っていたのですが、チェコスロバキアではプラスチック成型によるスケールモデルや玩具製造がかなり早い時点から立ち上がっていたことをうかがわせます。



ボディ側面にあるチェコ語の「Zachranna Sluzba」は、「レスキュー・サービス」(独語のRettung Dienst)の意味のようです。はじめ「Zachranna」は「ザニテート」に相当する言葉かと思いましたが、チェコ語でも「sanitka」(救急車)、「sanitar」(看護人)といった言葉は別に存在していました。(辞書に発音記号が載っていないので、カタカナ表記が出来ないことをご了承ください。また「ハーチェク」などのチェコ語のアクセント記号は、ドイツ語のウムラウト同様に日本語HTMLでは表示できないこともご了承ください。)

側面に救急車と並んでいる赤に黄色ストライプのバリエーションは消防仕様にしか見えませんが、「dopravni」は「輸送の・交通の」という形容詞、「podnik」は「企業」という名詞なので、「輸送会社」仕様と読めます。とは言え、バスではなくて、鉄道会社などの緊急車かもしれないですね。

前輪にフリクション動力が入っており、これに金属板が触れると「火花=jiskra」が飛んで、屋根上の回転灯が発光しているように見える! という驚くべきギミックを備えています。(童心に帰ってフリクションを回してみましたが、古いモデルなので残念ながら「発火」はしませんでした。)
「ミニカー」とは言えない「玩具」とは思いますが、時代とお国柄を感じさせて、見飽きないモデルです。




紙箱側面には、ポリスと道路サービスのバリエーションも紹介。(消防・救急を入れて全4種。)
青い方の「hlidka」は、「警戒」「番人」といった意味。「VB」は「verejna bezpecnost」で公安警察。
黄色い方は「silnice」が「舗装道路」、 「sluzba」は救急車のところでも出て来た単語で、「服務」「サービス」の意味。


シュコダ1200救急車/IGRA(チェコスロヴァキア)
skoda 1200 Krankenwagen aus IGRA, Tschechoslowakei



ここからは東ドイツを離れますが、「IGRA」からの流れで少しチェコスロバキア/チェコのモデルをご紹介しましょう。画像右は、同じくIGRA製と考えられるプラスチック製の窓なしモデルで、車種はシュコダの1200系列でしょう。「1200」のデビューは1950年ですが、ワゴンタイプ・ボディは1952年からのようです。

チェコ語で語頭のSの上にv型の記号「ハーチェク」が乗る「エシュ」(つまり「エス」とは別の文字)であることから、これで「スコダ」ではなく「シュコダ」と発音するということのようです。

シュコダ1200は、「1201」「1202」と「近代化改修」を受けながら何と1973年まで生産されているので、モデルの年代特定はむずかしいのですが、前述のバルカスよりもかなり成型が甘く、抜け勾配も上方への一発抜きで、ラジエータグリルなどの車体前面を克明に表現しているバルカスよりも、生産年次が古いのではないかと想像します。おそらく50年代末から60年代でしょうか。
後輪にフリクションは入っていますが、「火花」機構は入っていません。



ドクター・エドワード・フォースは、「Miniature Emergency Vehicles」の102ページで、IGRAの似たような窓なし救急車を「メルセデス・ベンツ・アンビュランス」として紹介していますが、良く見ると確かにこのシュコダ1200とは違うモデルです。

チェコは戦前からの自動車生産国であり、ヒトラーがチェコ併合によって、極めて大規模な車輌生産設備を手に入れたことはご承知の通りです。自動車生産国には、自動車模型の文化も発達・定着する、というわけなのです。



シュコダ1201救急車/IGRA(チェコ) 1/87
Skoda 1201 Krankenwagen aus IGRA, Tschechien



同じくIGRA製ですが、時代はずっと下り、比較的最近の1/87製品。
発売年次は特定できませんが、出所表示が「Tschechische Repblik(Czech Republic/チェコ共和国)」になっていることから、1993年1月にスロバキアを分離して以降の製品ということになります。

ドイツ・エッセンの出品者から購入しましたが、彼は「Skoda 1201 Kombi Krankenwagen Prag」というように車名を特定しているので、この「シュコダ1201」という情報を信頼したいと思います。

このモデルの造形を見ることで、逆に前述の「窓なしモデル」のプロトタイプの姿を偲ぶことができます。ボディ側面の「Zachranna Sluzba Praha」は、先述のバルカスと同じで、「プラハ・レスキューサービス」(プラハ救急隊)の意味。プラケースに「689」のナンバーがありますが、メーカー品番か、ショップが便宜的に付したものかは不明。小さいながら、独特の「丸み」と「味」のあるモデルに仕上がっています。



プラガV3S赤十字トラック/IGRA(チェコ) 1/87
LKW Praga V3S Krankenwagen aus IGRA, Tschechien



同じく近年のIGRA製、1/87のプラスチック製モデルで、実車もチェコ製・プラガの「V3S」トラックの赤十字車。 キャブ・ドアと、ボディ側面後部に「UN」の標識を加えた、チェコ共和国軍の国連派遣仕様も存在します。最近の製品は「Rietze IGRA」というタイトルで売られています。

ところでチェコ語の「Praga」は、首都「プラハ」のことだ、という記述を読んだことがあるのですが、前述のIGRAのHOモデルであるシュコダ1200の側面にはっきりと「Praha」のマーキングがあるように、チェコ語のプラハは「Plaha」としか綴らないこと、チエコ語の「g」は「ゲー」であることから、私としてはこの説には疑問を持ちます。おそらく誤りでしょう。英語ではプラハを「Plague」、ドイツ語では「Plag」と書くことから来た混乱かもしれません。



シュコダ1203救急車/Kovodruzstvo Nachod(チェコ)
Skoda 1203 Krankenwagen aus Kovodruzstvo Nachod, Tschechien



シュコダ1203のバン型救急車。
プラスチック製の大きなモデルで、裏板は金属板をプレスしたものですが、文字情報は皆無。箱が失われていたために、車種は特定できたものの、今度はモデルのメーカーがわかりませんでしたが、著名な救急車コレクターのSさんから、「Kovodruzstvo Nachod」というメーカーのものであるとの情報をいただきました。(Sさま、色々とありがとうございました。)

ドイツ/スイスなどのネットオークション上で複数回見たことがあるので、これまたチェコではポピュラーな玩具だったのかもしれません。



「アンカー」製のバルカスB1000と違って、このモデルはインテリアが再現されています。運転席シート/ステアリングホィールはもとより、患者搬送部の救急隊員(看護師)用シートもあります。

画像のモデルではテールランプ/リアゲート上半分/屋根上前部右側のアンテナなどが破損して失われていますが、この状況では担架も付属していたものと思われます。
なかなか、「スケールモデル」としての素養を持った面白い製品と思います。

このモデルの出品者は、スケールを「1/25」と書いていて、これが定説にもなっているようですが、「アンカー」製のバルカスB1000と比べると一回り以上大きいのですね。シュコダ1203の全長データを持っていないので、実車がバルカスと同じぐらいの全長と仮定すると、全長220mmのこのモデルは、1/20.5という数字になり、納得できます。一方、仮に1/25だとすると、全長は5500mmになってしまい、バルカスよりも1mも長いことになってしまうので、1/20モデルだと解釈するのが妥当でしょうか。




裏板はプレスした金属板で、アンカーのバルカスのように、実車の車台レイアウトを再現しようという意志は見られません。このモデルにもフリクション動力(それも前輪に)が付いています。



シュコダ1101救急車/ボヘミアモデル(チェコスロバキア)
Skoda 1101 Krankenwagen aus Bohemia Model, Tschechoslowakei



以下2点は、以前にご紹介したモデルですが、「チェコ製モデル」ということでの親和性を考えて、本稿に移植することにしました。画像を撮りなおし、テキストは若干改訂していますが、そのつもりでご覧ください。既にご覧になられている方は飛ばしていただいて結構です。

チェコの「ボヘミア・モデル」による、シュコダの1101-1102系の救急車。
ボディ/裏板ともにプラスチック製で、おそらくレジン・キャストでしょう。極めて「ハンドメイドらしい」モデルで、はっきり言ってボディの成型は曲がっており、車軸もまっすぐ接地しません。(この画像では、その点かなり強調されて写っていますが…。)裏板には筆記体の「Bohemia」と「Z」のモールドがありますが、車名の記載はありません。ヘッドランプは出血大サービスのカットガラスになっています。内装は運転席シートだけがあり、インパネもハンドルもありません。(取れて失われている可能性もありますが…。)

これも救急車コレクターのSさんの情報によれば、「ボヘミアモデル」は1970年代頃に分割前の「チェコスロバキア」で作られていた手作りモデルで、日本の模型誌にも、『痩せて口髭をはやした製作者の写真と何台かのモデルが紹介されていて、このモデル以外にも1920年代タイプの救急車や軍用救急車も含まれていた』という記憶があるそうです。

シュコダは現役の自動車メーカーなので、同社のサイト上で「歴史」を検索すると、1940年代のところにこの「1101-1102」系の救急車の写真を見ることができます。
http://www.skoda-auto.com/global/100/history/1945.htm

1946年の春に、「Tudors」(英語読みでは王朝名である「チューダーズ」)の商品名で当初2ドア車で市場デビューし、その後4ドアと300kgパンが追加されたとあります。
1946年にペテラ(Petera)ボディ架装製作所が、ボレスラフ(Boleslav)自動車工場の傘下に入ったことにより、その最初のシュコダ製品となったのが、この1101系のシャシを持った救急車だそうです。1949年からは1102系のシャシのものも生産されましたが、1101系と1102系のシャシの違いは、わずかな改善だけだということです。1101-1102系は、軍用車としても成功し、オーストラリアなどに輸出されたそうですから、このボヘミアモデル製アンビュランスについても軍用仕様があるかもしれません。


シュコダ1101救急車/Heinek Knopp Models(チェコ) 1950年式
Skoda 1101 Krankenwagen aus Heinek Knopp Models, Tschechien



これもチェコのハンドメイド・モデル。
「ボヘミアモデル」とは工房が異なり、出品者の説明では「Heinek Knopp Models」というところの製品だそうです。ただしこの出品者、最初はフランスの「MVI」製だと言っていたので、絶対的に確かなものとは言い切れますまい。

ミニカーの裏板は全くの「のっぺらぼう」で何の記載もありません。プラケースに入って来ていて、裏側には「FARO CZECH REPUBLIC」のモールドがありますが、量産品ミニカー用のケースだけを転用したものでしょう。車名を書いたコピーがプラケースの台座に貼り付けられており、「Skoda 1101ambulance1950」となっています。年式・型式はシュコダ社のサイト上の情報と矛盾がありません。(1949年以降、1101系と1102系を並行生産したように読めるからです。)

ボヘミアモデル製よりもだいぶん上品で、良いデキに仕上がっているのは、製造年次が新しいせいでしょう。キャビン後部(患者搬送部)にブラインドがかかっていることも、救急車らしさを盛り上げるのに一役買っています。面白いことにボヘミアモデルの方が全長がかなり長いです。




こうして見ると、東ドイツのフラーモV901などに共通する雰囲気を持ったスタイルです。





「DDR」「チェコ」などとしてネットオークション上に出品されているものは他にも散見されるのですが、車名もメーカーも不明では、資料的な価値が乏しくなってしまいますので、今回はこのあたりで「打ち止め」にしました。やはりパッケージの残っているものは重要な情報源になります。以前に「東ドイツのモデルカーのリスト」的な書籍を見かけた記憶があるのですが、後の祭り、その時に入手しておかなかったことが悔やまれます。また、シュコダの別のレジン製完成品救急車がチェコから出品されていたのですが、発送対象地域が「ヨーロッパ・ユニオン」になっていたため、日本に送ってくれるものかどうか聞こうと思っていた矢先に、即決で買われてしまいました。



こうして見て来ますと、「シュコダ」のように、ソ連・東欧の社会主義圏の崩壊以降に新しい発展を遂げた実車ブランドもありますし、「フラーモ」「バルカス」「IFA」のように、歴史の彼方に去って行ったクルマたちもあります。ソ連・東欧の社会主義圏における「自動車」は、軍事・産業用途としての性格が強いとは言え、住民にとっての極めて身近な生活財・生活用具・生活文化としての意味を持っていたことも否定できません。日本人の我々が古い日本車に郷愁を感じるのと同じように、旧東ドイツ地域の住民が「東ドイツ車」にノスタルジーを感じても全く不思議は無いと言えるでしょう。

20世紀東欧の激動は、ナチズムや社会主義などのイデオロギー的な要因が根源になっている、と思われがちですが、実は最も根底にあったのは民族問題だったようです。
第1次大戦まで、「オーストリア・ハンガリー帝国」などは、ひとつの帝国内に極めて多様な民族を抱えていたのですが、こうした大帝国が敗戦や革命で崩壊すると、「1民族・1国家」という考え方がどんどん先鋭化していったのです。例えばドイツによる併合以前のチェコスロバキアには、チェコ系(最多)の他に、マイノリティ(少数民族)としてスロバキア系/ドイツ系/ユダヤ系の住民が暮らしていたのですが、ユダヤ系は戦争で強制移住または殺されてしまい、ドイツ系はドイツ降伏時にドイツに追放、そして近年になってチェコ系とスロバキア系はそれぞれ独自の国家を持ったのです。
このように、多民族・多言語的な要素を持っていた「東欧」は、「1民族・1国家」に再分割されて行きました。ユーゴスラビア(スロベニア/クロアチア/ボスニア・ヘルツェゴビナ/セルビア/モンテネグロ/マケドニアに分離)などもその典型と言えるでしょう。ナチズムは異常なケースのように思われるかもしれませんが、実は「1民族・1国家」的な民族的潔癖主義・排他主義が、最も極端に現われたものであるに過ぎない、という見方が出来ます。決してヒトラーの「個人的な狂気」だけに原因があるわけではないのです。

こうした流れの中では、ドイツの「統一」も決して「対等」な統合ではなくて、西欧的な「1民族・1国家」主義によって、「東欧」が飲み込まれた例のひとつに過ぎない、という見方もあります。
そして東欧各国は、さらに「EU」という大連合の中に入って行こうとしているので、その中で自分たちの言語やアイデンティティをどのように確保して行くのかが課題になって行くと思われます。歴史的に多民族・多言語的な要素を持っていた「東欧」は、案外上手に、EUの中での立場を確立して行くかもしれません。むしろイギリスやフランスなどの方が、「1民族・1国家」的な意識が歴史的に強いのです。
チェコの「アブレックス」ブランドのミニカーを、ドイツやイギリスのオークション・サイト上で見る時、これまでには無かった新しい変化の到来を予感ぜざるを得ません。



切手収集では、「テーマチク・コレクション」という確立された手法とカテゴリーがあり、大変に深く、興味ある研究がなされ、その熱意とクォリティは驚くばかりです。コレクションに対する評価やコンクールなども行われ、時には出版もされます。(例えば 伊達仁郎編著『切手が語るナチスの謀略』大正出版・1995年。)

ひとつひとつの収集品の背景を探り、収集品同士を関連付けてストーリーを作って行く、あるいはライフワーク的な大きなテーマを持って、そのテーマを語り得る収集品を探して行く、という方法を採るのですね。その中ではそれらの収集品によって、いかにそのテーマが語り得たか、ということが重要であって、時には稀少な収集品が必要になることもあるものの、高価な収集品をたくさん持っているかどうかが最重要な評価ポイントでは無いのです。ましてや、新発売されるものを受動的に受け入れているだけではその人独自のコレクションにはなりません。

私は切手コレクターではありませんけれど、切手コレクターのこうした視点と手法は、学ばなければいけないと考えています。もうそろそろ日本のコレクターやモデラーも、「ドイツの武装親衛隊はカッコいい」といった類の欧州史感からは脱皮するべきと思うのです。
他国の文化や歴史が見えて来れば、日本の文化や歴史の長所も見えて来るはずです。「玩具文化史」なんていう視点が注目されていもいいと思うのですね。
その意味では、「東欧」圏のモデルカーというのは、コレクションにとってなかなか面白いテーマになるかもしれない、と思います。


     




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